マウ・ピアイルック師の直弟子である石川直樹さんの最新エッセイ集です。
石川直樹『すべての装備を知恵に置き換えること』(晶文社、2005年)
ご存じかと思いますが、石川さんは現代日本を代表する若き大冒険家。山に海に砂漠に森そして空に、石川さんの進撃を阻むものなど無いのではないかというくらいの縦横無尽の活躍を続けておられる、ナチュラル・ボーン・トラベラーです。山に在っては世界7大陸の最高峰の最年少登頂記録を塗り替え、海に在ってはカヤックで北極海を漕いでいたかと思えば、OC-6のレースに飛び入り参加し、サタワル島で伝統航海術を学び、ホクレア号に乗る。タリバン政権崩壊後のアフガンを駆け抜け、イラク戦争開戦前夜のイラクさえも突破していく石川さんに残されたフロンティアは、もはや深海と宇宙空間だけでありましょう。平和を愛する逆ランボーとでも言いましょうか。
私、石川さんには一度だけお会いしたことがありますが、パッと見では、本当に普通の青年なんですよ。体だって決して大きくも無いし、ムキムキでもない。服を着ていたら、レンジローバーも裸足で逃げ出す悪路走破性を秘めたスーパーボディの持ち主だなんて、一切わからない。能ある鷹は爪を隠すんですね。本当に。ペランコペランコ自分のことばっかり自慢げにくっちゃべっている男ほど怖くないもんは無いと言いますが、逆もまた真なり。
さて、この本は、そんな石川さんが雑誌「Oggi」を中心にしてここ数年の間に発表してきたエッセイをまとめたもの。石川さん公式ウェブサイトの、ぶっきらぼうとも言える短い日記から予想されるよりも遙かに雄弁で、それでいて非常によく整理されている、北欧のモダンな家具のような文体に、まずは驚かされました。石川さんの文章は、名文家と言って良いレベルに達していると思います。
ちなみに、タイトルとなっている「すべての装備を知恵に置き換える」とは、アウトドアグッズのメーカー、パタゴニア社の創業者の言葉なんだそうです。我々が冒険をするという時に、お金さえあればありとあらゆる装備を揃えて出かけていくけれども、それらの装備は、冒険家の知恵によって置き換えていくことが可能なのであり、なるべく余計な装備を持っていかない冒険家こそが、冒険されるフィールドへのインパクトという点では、最良の冒険家なのだという思想です。
「『全ての装備を知恵に置き換える』。それは過保護な日本の社会に、また科学技術に頼りきった現在の世界に最も欠けていることだ。」(9ページ)
そして、石川さんは、冒険というのはエクストリームなフィールドに出かけていくことだけではなく、便利な装備品をいかにして自らの知恵で置き換えていくかというチャレンジそのものもまた、立派な冒険なのだと結論するのです。
これは、なかなか示唆に富んだ指摘だと私は思います。私自身は、科学技術というのは人類史直近5万年の間に膨大な数の祖先達がトライ・アンド・エラーを繰り返して積み上げてきた、偉大な知恵の集積だと思っていますから、それを全て否定するということは不可能だという立場です。科学技術や装備品は、知恵の一つの形ですからね。私たちは、何故、博物館や美術館に過去の遺物を収め、それについて学ぶのか。それは、一つ一つの収蔵品の形に結晶している先人の知恵を学ぶ為です。
しかし、今の世の中では、身の回りに溢れている工業製品の一つ一つに込められた、どれほど賞賛しても賞賛しすぎるという事はない、偉大な知恵の集積に気付けなくなっている人も少なくない。自動車評論家の福野礼一郎さんは、名著『クルマはかくして作られる』の冒頭に、こう書いています。
「我々が普段何気なく使ったり見たりしている平凡でありふれていてどこにでも転がっているような機械でも、それを作っている現場というのは職人芸の展示会場のようなものだ。『こんなもの』と思ったら、その製品を設計したり金型を作ったり組み立てたりするときに使われた寸法数値は100分の5mm単位だと考えて間違いではない。髪の毛1本分の寸法の差に重大な意味を見つけられないなら、『こんなもの』さえ作れないのがモノ作りの現場というものだ。逆に『ほほう』と思ったら、それを設計したり作ったりしている人々の熱意や技術はバケモンだと考えていい。」(6-7ページ)
海部陽介さんの『人類がたどってきた道』によれば、2000年前の人類より現代の人類のほうが脳の性能が優れているということは無いそうですから、2000年前に作れなかったものが現在作れているのは、これ全て、この2000年間に集積された膨大な知恵のおかげということです。
こうして集積され、一つ一つの工業製品に結晶している知恵を、敢えてもう一度自分自身の体で探索してみるのは、言い換えれば人類史の一断片を一気に辿り直す、知的な冒険になりうるでしょう。自分の生活が何に支えられているのか。その支えを失った時、自分でもう一度その支えを創り出すことが出来るのか。そのあたりを試してみるという意味で、「すべての装備を知恵に置き換え」てみるのは、悪くない。ただし時と場合を考慮してからでないと、色々とマズいとは思いますけど・・・・・。
この本はほんの短いエッセイを連ねたものですし、石川さんも名文家とはいえ、失礼ながら芸風は現状さほど幅広くは無いので、本一冊を乗り切るとなると一本調子な面が若干目立ってしまいますが、類似のエッセイ集に較べれば明らかに頭一つ抜けたクオリティがあります。石川さんは、野田知佑、椎名誠、沢木耕太郎といったオン・ザ・ロード系エッセイストの系譜の正統な後継者であり、一等星、一番星です。
みなさんも是非、お読みになることをお奨めします。
しかしこの勢いだと、近い将来に出るという航海カヌーに的を絞った新刊は、すごいことになりそうだな・・・・。期待だけで爆死しちゃいそう。