博士論文にホクレア号のことを書く奴

 私事ですが、5年ほどかけて趣味で書いていた博士論文が完成したんで、昨日、大学の事務に出してきました。まあ、高級外車を一台買うのと同じくらいのお金がかかる趣味ではありましたが、楽しかった。満足ですよ。

 それで、論文そのものはハワイにも航海術にも何の関係もないテーマなんですけれども、最後の章の最後の最後はホクレア号の話で締めました。
もともと私が研究していたのは、音楽とは何かという非常に哲学的なテーマなんですが(というか哲学なんですが)、その中で、ミクロネシアには歌を使って航路を記憶する人々がいるという噂を聞いたのが、そもそものホクレア号との出会いでした。それが5年くらい前のことです。その時に思ったのが、現在支配的な音楽の捉え方だと、歌なんてものは人間さまが「歌ってやる」からこそ世の中にあるんだ、いわば人間さまの一部ということになるのですが、歌を頼りに航路を記憶している人たちにとっては、その歌というのは自分の一部、自分のアタマの中から出てくるものじゃなくて、自分の外部にある存在なんじゃないかということでした。

だって、歌が自分のアタマの中にあるんなら、航路もまた自分のアタマん中にあるわけで、わざわざ歌にして憶える必要なんか無いですもんね。「星の歌」は航海士の外にある存在ではないのか。

そんな所から私の博士論文は出発しました。その詳細はとてもここでは紹介しきれない細かくも長大なものですので、省くとしましょう。私の出した結論は「やっぱり歌は人間の外にあるんだよ!」というものでした。ただ、論文のメインの議論ではホクレア号やマウ老師の話が書けなかったので、最後の結論のところで、ホクレア号への感謝の思いを込めて、紹介させてもらった次第です。少し長いですが、以下にその部分を引用しておきます。
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(前略)
 この、ひたすらに音楽の根源を問いつめてきた論文の最後は、音楽とは全く離れた話をして終わりたい。
 1976年、ハワイのホノルル港からタヒチへ向けて、一艘のカヌーが出航した。船の名は「ホクレアHokule’a」という。「ホクレア」とはハワイの言葉で「喜びの星」を意味する。遠い昔、太平洋を行き来した古代ポリネシアの人々が、ハワイ諸島を目指す時に目標とした星であるという 。
 ハワイ諸島は、人類が住む土地でも周囲の陸地から最も隔絶した場所である。東アジアからも北アメリカからも数千キロ離れ、また大陸から繋がるような島づたいの航路も存在しない。では、クックがハワイに到着する以前に、この島に住んでいた人々は、いったい何処から、いかにしてやって来たのか。
 それを可能とするような手段は、カヌーによる航海しか無いはずであった。しかし、六分儀も方位磁針もクロノメーターも無い時代に、太平洋のまっただ中を数千kmも、自らの位置を見失わずに航海する事が出来るのだろうか。
 「ホクレア」は、この疑問を解く為に旅に出た船であった。「ホクレア」を導いたのは、ミクロネシア連邦のサタワル島Satawal Islandから招聘された航海士のマウ・ピアイルクPius “Mau” Piailugである。この時既にハワイでは、このような長距離の航海を導ける技術は失われていたのだ。一方、ミクロネシアでは、この前年にやはりサタワル島のカヌーが日本で開催された海洋博の会場まで伝統的航海術を用いて航海するなど、辛うじてこの技術が残っていたのである 。
 マウは、サタワル島に伝わる伝統航法術を応用し、見事に「ホクレア」をタヒチまで導いた。この航海中、「ホクレア」のクルーの内紛に失望したマウは、彼らに腹を立ててタヒチから直接サタワル島へ帰ってしまったが、復路の航海に同行する予定であったハワイの若者、ナイノア・トンプソンNainoah Thompsonは、伝統的航海術の復興の必要性を痛感し、後にサイパンまで出かけていってマウに弟子入りし、その技術を受け継いだ 。
 ナイノアらの尽力によってハワイに蘇ったリモート・オセアニアの伝統的航海術は、「ホクレア」とともに太平洋を駆けめぐり(その航海はアオテアロアAotearoaやラパ・ヌイRapa Nui にまでも達し、南太平洋地域の島嶼部の人々が、古代にカヌーによってハワイやイースター島まで到達しえた事を示した)、その行く先々で伝統的航海術の復興運動とポリネシア人の自己肯定的なアイデンティティの再構築を呼び起こす事になった。タヒチで、アオテアロアで、ラロトンガで、伝統的な航海カヌーが建造され、人々は海へと乗り出していった。
 ところで、この話が本論文とどう関係するのか。
 「ホクレア」の活動が示しているのは、差異を乗り越え、自他の間に共通する要素を探し出し、差異の中にあるそのような縁を寿ぐ事の重要性である。
 「ホクレア」の旅は、ミクロネシアの人間であるマウから贈与された航海術無くしては始まらなかった。そして、ミクロネシアからもたらされたものを「ホクレア」はポリネシアの様々な土地に届けて回った。「ホクレア」の最初期からのメンバーであり、後にハワイ島で航海カヌー「マカリイMakali’i」を建造したクレイ・バートルマンClayton Bertelmanは、次のように語っている。

(引用はじめ)
 我々は最初に、ある取り決めをしたんだ。それは、学んだことは独占せず、皆で共有しようということだ。なぜなら、今まで多くの知識が、伝承されずに滅んでいったからね。ハワイ人に限らず、学ぶ意欲に満ちた多くの人々と、知識は共有してゆくべきだ 。
(引用おわり)

「ホクレア」からもたらされた伝統的航海術は、太平洋各地での伝統的航海カヌーの建造とそれによる航海という形で次々に実を結んで行った。そしてそれに伴う海洋民としての自己肯定的なアイデンティティの確立はポリネシア人たちを勇気づけ、ポリネシア人社会の福祉に大きな力を発揮していった 。
 贈与の環は次々に繋がっていったのだ。
 ここで考えてみたいのは、もしもマウが、あるいは「ホクレア」が、自他の差異に拘り、彼我の間にある差異を言い立てて自らの同一性を確保しようとしただけであったら、どうだったであろうかという話である。
 サタワル島に眠っていた種は、このような形で花開いただろうか。
 現代の諸言説の少なくない部分が自他の差異をのみ強調し、憎悪と相互不信を呼び起こしている中で、先住ハワイアン達を中心とした「ホクレア」の航海は、それらとは別の航路を辿ったように思える。
 「ホクレア」のクルーが全長19m、全幅5.3mのカヌーに乗り、命懸けで16万キロもの海を渡って行ったのは、彼我の差異の中にある共通性を示し、新しい文化の種を届ける為である。
 自他の差異を言い立て、「それは音楽ではない。」と宣言し、自らの同一性に拘泥する。それよりも、そんなことよりも、いままで音楽ではないと思われていたものにもう一度目を向け、そこに彼我の差異ではなく同一性を読み取り、我々の生活を豊かにしてゆく方が楽しいのではないか。眠っていた種に光を当て、芽を出させ、花を咲かせ、実を結ばせる方が面白いのではないか。
 「ホクレア」の旅とは違い、我々はそれに命までも懸ける必要など無いのだから。
 いや、彼らがまず船を造らなければいけなかったのと違って、我々はその為に必要な道具を探す必要さえも無い。それは、すでに我々が手にしている音楽の中に、「呼びかける力」として存在している。他者に呼びかけ、誘い、遊びのうちに融合しようとする力こそ、音楽の本質、根源である。音楽は「人類に共通の言語」ではないが、言語コミュニケーションを可能とする、人類に共通の前コミュニケーション的なプロセスの、一つの独特な形である。少なくとも筆者はそう信じている。
 既におわかりのように、筆者はここで敢えて本質主義の立場に立つ。
 たしかに音楽という言葉の意味内容は千変万化であり、これこそが唯一絶対の定義などと言う事は出来ない。しかし、序論において論じたように、我々は必ずなにがしかの形で、いわば「不自然に」自らの身体を方向づけ、そのありようを選び取らなければならない存在である。我々は人類であるという時点で既に自然そのままの状態から決別し、何らかの「不自然な」歪みとともに生きる事を選んでいるのであり、そこで我々が選択できるのは、どの「不自然さ」を選ぶのかだけなのだ。
 であるならば、筆者は本論文において考察したものこそ音楽の本質であると根拠無く信じ、この定義を選び取り、この定義に従って自らの身体を方向づけて生きたいと思う。
 私は、本論文で示した音楽の捉え方を選び取る事の先にこそ、自分と自分の隣人たち、その子孫たちが健康で平和に生きられる可能性の最大のものがあることを願い、信じ、その選択肢に自らを賭ける。言い換えれば、私は健康と平和に至高の価値を見出し、その価値の実現を音楽という経験において最も効率よく期待出来る音楽観はこれだと主張し、そのような音楽観をもとに自らの身体を再構築しようと考えているのである。
 もちろん、これはまったく中立でも客観的でも無い態度である。それは学問ではない、と言われるのかもしれない。けれども、学問においても究極的には完全な中立も客観も不可能であり、学問を志す人はまた自分がいかなる価値を目指して学問を行うのかを自分自身の責任において決定しなければならないのではないだろうか。
 我々が音楽と考えてきたものの根源には、我々がいつの間にか身につけていたハビトゥスを飛び越え、見えないとか聞こえないといった肉体の差異をもくぐり抜けて彼我を結びつける、無敵の力が潜んでいるはずである。誰もが同じように聞こえる耳を持つ事、誰もが作品という形でしかそれを経験出来ないと信じる事を含意した、近代西洋的な「音楽」という概念に閉じこめられかかっているこの力を今一度解き放ち、新しい花を咲かせること。これからも無数に生まれてくるであろう新しい音楽の「遊び」のうちに、我々の存在を宣言してゆくこと。今、ここで、俺さまは生きているのだと音楽において確認すること。
 これは、なかなか悪くない遊びではないだろうか。
 ちなみにマウがホクレアに乗り込んだ際に用いた技術の中には、サタワル島の言葉で「Wofanu(星の歌)」と呼ばれる、目印とする星と航路上の島々の特徴を順に歌い込んだ歌があった 。マウは自らの肉体と意識、そして無意識の間に呼び起こした一つの「遊び」である「星の歌」を用いて、先住ハワイアンの希望の船を、タヒチへと導いていったのである。(完)
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博士論文のタイトルは「遊びとしての音楽-『鳴り響くもの』から『呼びかけるもの』へ」
昨日付で国立国会図書館に納本しました。註を除く本文は以下のウェブログで順次公開していく予定です。
http://blog.livedoor.jp/waka_moana/archives/50128357.html