【もはやファンタジーノベルではない何かを書き続けること】異世界の法学

エブリスタでちまちまと書き進めている異世界近世リアル政治経済小説(他に形容のしようが無い)「兵站貴族」

10章まで来ましたが、主人公シムロン・グウィル青年は、なおも生まれ持ったチート設定の大半を自ら封印した状態で頑張っています。

昨日の更新分では設定上「大学で10年に1人の逸材と讃えられた秀才」である主人公の卒論の題目が晒されてしまいました。

「授封の際に相異なる権利を認められた隣接する所領群における権利の共通化と簡素化に関する諸問題:1505年の行政言語統一法の成立過程に着目して」

この論文の副題に出てくる「1505年の行政言語統一法」のモデルとなったのは、フランスが1539年に発布した「ヴィレル・コトレの勅令(Ordonnance de Villers-Cotterêts)」です。この勅令で決められた内容は色々ありますが、「公式文書ではフランス語しか使っちゃダメよ」と「教会は教区の人間の洗礼と埋葬の日時を記録しておけ」が特に重要な内容であったとされています。

【ここから異世界の憲法と行政法に関する非常に細かい説明。飛ばして読んでもOK】

さて、私の書いている小説では隠し設定の一つとして

「アルソウム族には文法構造は共通ではあるが、語彙や発音がかなり違う方言(dialect)が幾つかあり、またアルソウム連合王国内には文法もアルソウム語とは異なる少数言語の話者集団も複数存在する」

というものがあります。

従来、これらの方言や少数言語を使った文書も、アルソウム文字で書かれている限りは法律上有効とされてきました。

しかし、帝国歴1505年に議会で可決・成立した「行政言語統一法」の施行以後は、首都ゼルワ周辺から東のブレル丘陵地帯にかけて話されている言葉を基準として、名詞の格変化や動詞の活用はこのやり方で書かないと公文書としては認めないということにされてしまいました。

つまり、この時、連合王国政府はある種の権利の剥奪を広範囲に行ったわけです。

「それまで使えていた方法が王権によって使えなくなる」

ということは法律を作ったり改廃したりすれば当然、発生するのですが、それらは例えば

「肉屋は屠殺の際に出た家畜の血を道路に流してはならない」とか「徴税請負人は公証人の認証を受けた収税証明書を、毎年、夏至の日までに提出しなければならない」といった、何故それが必要なのかが具体的にわかるものでした。

ところがこの「行政言語統一法案」は、必要性が非常にわかりにくいものなのです。

実際には1402年の「六国合同」による連合王国成立から100年が経過し、領邦境界を越えた人やお金の移動、商取引が当たり前なものとなる中で、条例や公文書や公正証書の文言の意味を取り違える危険性を減らす、というのがこの立法の最大の理由でした(もちろん、その背後には連合王国の地理的な中心部に向かって文化的な求心力を強めたいという思惑もあったのでしょうが、それは議会の議事録には出てこない話です)。

しかしながらアルソウム連合王国では法律は連合王国を構成する六つの領邦(ヤムスクロ王国、アバルサ王国、マンガルメ王国、モヤンバ王国、クンビア大公国、ブレル侯爵領)の代表による連合王国議会で過半数を取らなければ成立しませんし、この法案の審議過程では言葉が遠い所(マンガルメ王国、モヤンバ王国、クンビア大公国)ほど強く抵抗しました。

この時に最大の論点になったのが、「行政言語統一法案」はアルソウム部族法の中でも最も古い条項の一つである通称「幸福条項」、すなわち

「アルソウム族の部族の長は常に部族の者たちの幸福を第一に考え、自らの欲望よりもこれを優先しなければならない」

に反しているのではないか、ということです。法案提出側は、この文言における「幸福」を「便利さの拡大」と定義し、「行政言語統一法」によってこれが拡大すると主張しました。一方、反対側は「幸福」を「自由の確保された状態」と定義し、「行政言語統一法案」は自由を正当性無く制限するものであると主張しました。

結局この論争は、「行政言語統一法」によって一部のアルソウム族の自由は制約を受けることになると確認した上で、この制約を受け入れることによって、より大きな自由、つまり遠く離れた場所とも言葉の違いを気にせずに取り引きが出来る自由が手に入ることになり、これは「幸福条項」に反しないという意見が過半数となって、法案成立となったのでした。

この論争において「行政言語統一法」の正当性を論証した理論が、連合王国内の封建領主の領地が中小領主の没落によって再集約される時に、元の領主から領民が与えられていたバラバラでまちまちな諸権利の整理統合に流用しうるか、ということを、主人公は大学生のときに研究していた・・・・というわけです。

なお、「幸福条項」はアルソウム部族法の中でも「王冠がその継承者に要求する法」(通称「王冠条項」)と呼ばれる、特に重要な法律群の中の一つであって、この改廃には議会の過半数ではなく議会の4分の3の賛成が必要ということになっています。ということは、国王ではない諸侯は「幸福条項」の制約を受けないという解釈も出来るのですが、部族法とともに連合王国の法律の基本となる共有法では「国王は諸侯の筆頭者であって諸侯から隔絶した存在ではなく、その国土と秩序の守護者としての地位は、諸侯の同意により共有され国王に委託されたものとして成立した」という、王権委託説と呼ばれる学説が有力であり、この学説からは逆に、幸福条項が求めているものは本来、アルソウム族の爵位を有する者全てが守らなければならないものである、との解釈も可能となります。

【ここまで異世界の憲法と行政法に関する非常に細かい説明】

主人公はこの論理の有効性を多面的に検討して、論文にまとめたのです。

ここまで頑張って読んでしまったごくわずかな方。きっと呆れておいでだと思います。

異世界ものにそこまで細かい法律の設定を作る必要があるのか?

最初は私もここまで細かいことを考える気は無かったんですよ。

しかし日本ファンタジーノベル大賞に応募するために「竜の居ない国」を書いていると、どんどんこうした設定が必要になってきました。きっかけは主人公のパートナーとして白兵戦を担当するキャラクターを出したことです。「兵站貴族」にもチョイ役で出ているイェビ=ジェミ・ガイリオル中隊長。私がこのアルソウムという国を舞台とした物語を書き始めたのは、彼が町外れで主人公を襲う暴漢を撃退するシーンからです。

この時点で直ちに幾つかの疑問が生まれます。

  1. イェビ=ジェミ・ガイリオルの身分は何か
  2. その身分の人間は戦場ではない場所で武装していることが許されるのか
  3. 戦場ではない場所で戦闘を行った場合、司法はどのようにこれを処理するのか

物語の舞台として考えていたのは、中央集権化がかなり進み、中央の国家権力による暴力の統制が行われている国です。日本で言えば16世紀に豊臣秀吉が刀狩りというのを始めましたね。イギリスでも16世紀からクロスボウや銃の所持規制が始まっています。日本にしろイギリスにしろ、規制は時代が下がるにつれて厳しくなっています。一方でアメリカのように、個人の武器の所持が憲法によって保証されている国もあります。

では、この社会はどっちなのか?

そんなことどうでも良いじゃないか。いや、良くない。全然良くないです。

戦闘ですからフィクションとはいえ怪我人や死人が出ます。その社会における武装の位置づけや意味合いがわからなければ、怪我人や死人が出た時の登場人物たちの心の動きもわかりません。わからなければ書くことが出来ないのです。それは違法なのか、合法なのか。違法だとしたら登場人物はどのようにしてその行為を正当化するのか、しないのか。仮にストリートファイトによる怪我人や死人を出す行為が合法だとしたら、その社会は何故そのような状況を合法として許容しているのか。

そんなことどうでも良いじゃないか。

どうでも良いと思っている人が多いのは知っています。だから、こうしたことを全く気にしないファンタジー小説が量産されているのです。

では逆に、刑法や民法や商法や行政法や財政法が、もっと言えば憲法が存在している世界では、ハイファンタジーは書けないのか?

これが、私がこの小説群を書き続けている最も根本的な動機の一つです。

先程のイェビ=ジェミ・ガイリオルの戦闘シーンに立ち戻ってみましょう。

私が考えた設定はこうなります。

  1. 国家の統治権を持つ君主が許可状を与えた同業者組合によって認証された傭兵である
  2. 都市城壁内での傭兵の武装の携行は国家が別途定めた規定に従い、認められる場合がある。この事例ではイェビ=ジェミ・ガイリオルは君主の直臣の護衛任務に就いているため、許可要件を満たす
  3. 武装の携行を認められた者が正当防衛として戦闘を行った場合でも、戦闘終了後は可及的速やかに当該地域の行政当局に届け出て調書の作成に協力しなければならない

つまり、かなり厳しい武装の規制がある社会だということがわかります。ここから、偶然戦闘に巻き込まれた民間人の反応はこのようなものだろう(ショックで動けなくなる・急性ストレス反応を示す)ということが導かれ、これがまた物語を進めるモチーフの一つになりました。

では、この記事で長々と設定を披露した主人公の卒論は、作品においてどんな意味があるのか。

「兵站貴族」のテーマは、貴族制の存在する社会で社会階層の頂点に生まれた誠実な青年が、どのようにしてその身分に付随する責任を受け入れていくのか、です。

彼の卒論の論旨からもわかるように、彼の国にも憲法に相当するような法律(王冠条項)があって、これが王侯貴族の社会的責任を規定しています。しかしその条項は抽象的なものであり、社会が変化すればそれに応じて、王冠は何を自分に求めているのかを、王や貴族は常に考えなければいけない仕組みになっています。特に、古いやり方を廃して新しいやり方を作ろうとする時には、必ず「王冠条項」(すなわち憲法)に反しないかが議会でチェックされるわけです。

もちろん、そんなことはどうでも良い、気にしないという貴族の方が多いんだろうとは思いますが、彼はフランスで言えばパリ大学に相当するようなところで、憲法と行政改革の問題を論じて首席になってしまっているので、もはやそこから逃れられない。彼はこういうことを常に考えながらこの先も生きていって、10年後(「竜の居ない国」)ではあのような行動をとり、11年後(「叙任式」ではあのように振る舞ったんだな、ということが定まる。

法律には、良くも悪くもその社会の歴史や文化が刻み込まれていると考えています。

ハイファンタジーを書くという行為において、その架空世界に血肉を与えるために、その世界の憲法や諸法典を考えるというやり方は、やってみると、これは大いにありなのではないかと思います。