「新・音のない世界で」という映画の残念さ

(とある雑誌に依頼されて書いたら、色々な理由を付けてボツにされた文章です。もったいないので残しておきます)

 今回依頼されたのは、映画「音のない世界で(原題:Le Pays des sourds, 1992年フランス、ニコラス・フィリベール監督)」そして今年の東京ろう映画祭で上映された「新・音のない世界で(原題:J'avancerai vers toi avec les yeux d'un sourd, 2014年フランス、レティシア・カートン監督)」を比較しつつ、障害の問題について何かを考えて欲しい、というものである。

 しかしながら障害という領域は極めて広大であり、例えば筆者が最近まで関わっていた障害者就労支援の問題と、筆者が相談されている車椅子ユーザーのためのバッグデザインの問題と、前出の2本の映画が取り上げている問題は、全く異なる素性を持っている。障害者就労支援事業の問題は多文化共生と営利事業の両立をいかに実現するかという、いわゆるHR(Human Resouces:人事、人的資源)ビジネスの領域に主に属するし、身体障害者のためのバッグはプロダクトデザインの領域のお話である。

 そして、ご存知のようにHRもプロダクトデザインも障害の領域に限られたお話ではない。かように、障害という領域の中には、普段障害の問題を意識せずに生きている人々(仮に健常者とここでは呼ぶことにしよう)を取り巻く、あらゆる論点が含まれているのである。筆者のイメージはこうだ。健常者の生きている世界の全ての場所には、障害の問題が存在している。それは健常者である限りは適切な観測手段を手に入れない限りは見つけられない。だがひとたび彼/彼女の身体に、あるいは彼/彼女の身近な誰かの身体に障害が訪れた時、彼/彼女がこの世界のどこに居ようとも、それまで隠されていた障害の領域が一気に立ち現れる。

 乱暴な喩えであるが、障害の領域とは理論物理学における余剰次元のようなものである。健常者が知る人間社会全てと同じ広さを持ちながら、そこに一つ二つ三つばかり、深さが加わったものだ。

 すなわち、障害を語れというオーダーは、人間社会を語れというオーダーに等しいスコープを持つ。よって、まず筆者が取り掛からなければならないのは、この巨大なスコープから、いかにして最も有意義で建設的な論点を取り出すかという作業である。

 では映画「音のない世界で」および「新・音のない世界で」を用いて、筆者はいかにして読者の思索を深めることに寄与しうるのか。映画そのものはいかようにも語られうるが、障害者の社会学の研究、芸術社会学の研究、そして障害者福祉ビジネスを経験したという筆者固有の経歴を勘案すると、最も有益なのは、障害者の表象戦略をビジネスの視点から考えることではないか。

 さて、前置きが長くなったが、ここからが本論である。映画「音のない世界で」および「新・音のない世界で」は、邦題だけを見るといかにもシリーズものの1作目と2作目のようであるが、実は両者は「フランスで制作された、ろう者コミュニティをテーマとした映画」というだけが共通点であり、出演者も監督も全く異なっている。

 とはいえ、おそらくレティシア・カートンはニコラス・フィリベールの作品を見ているであろうし、また今回の邦題の付けられ方を見ればわかるように、この2作は受け手に取っては当然のように比較検討の対象となるものである。
実際、この2作の内容は驚くほどに似通っている。どちらもドキュメンタリー映画の手法を採用しており、見た限りでは事前の打ち合わせや台本のようなものの存在は窺えない。

 「音のない世界で」では、聴覚口話法(補聴器などの聴覚補助デバイスを活用し、音声言語を教育言語とするろう教育の手法)のろう学校の児童の日常と、ろう者コミュニティ(本稿では、自然言語としての手話を共通言語とする人々のコミュニティという意味でこの語を用いる)の成人たちの回想が交互に映し出される。視聴者は児童たちが本来知りようのない「音の世界」の文化と苦闘する様と、コミュニティの仲間たちとともに生き生きと暮らすろう者たちのコントラストに驚くはずだ。そして映画の後半ではこれらのシーンに加え、若いろう者の男女の恋人たちが結婚し、新居を見つけ、子供を授かるプロセスが挿入されてゆく。無論、市庁舎での結婚の宣誓(フランスではこれが義務)もキリスト教会での式も披露宴も手話通訳が付く。手話が新郎新婦の母語なのだからこれは当たり前のこととして描かれる。時間経過の表現を伴う内容で映画全体の狂言回しの役を担うのは、聴覚口話法のろう学校の児童たちであるが、視聴者にカタルシスをもたらすのは若夫婦のパートである。若夫婦が子供を授かることで、ろう者コミュニティの文化が次世代に受け継がれてゆくことが暗示されるのである。

 「新・音のない世界で」でも、やはりろう者の成人たちの回想は随所に挿入される。聴覚口話法で育ち、口話法の世界で生き続ける大人(社会学的な視点では難聴者ということになる)も重要な役割を担って登場する。しかしこちらの作品では、狂言回しを務めるのは、ろう者の夫婦の息子である。彼にいかなる教育を与えるかを巡って家族会議が開かれ、聴覚口話法ではなく手話バイリンガル法(手話を主たる教育言語とし、文字言語を補助的に用いるろう教育の手法)が選ばれ、彼がろう学校で生き生きと学んでゆくプロセスが、この作品の時間軸を構成している。また、このろう児の学びのプロセスに加えて、手話バイリンガル法によるろう教育への国家的支援を求めるろう者たちのデモ行進、ろう者の手話パフォーマーと聴者たちが協働で舞台芸術を作り上げてゆくプロセスという2本の時間軸も、この映画には加えられている。三つ編みのようにして編み上げられた3本の時間軸は、最後にろう者と聴者がそれぞれ手話詩と音声歌唱(手話による歌唱と区別するために本稿ではこの語を用いる)を用いた舞台芸術を完成させて演じるシーンで終わる。監督のナレーションが示唆するように、このシーンはろう文化と聴者の文化の融合/融和の可能性を暗示している。本作でのカタルシス提供はこのシーンに託されているはずだ。

 このように書くと、どちらも良く出来たドキュメンタリー映画であるように思われるかもしれない。たしかにドキュメンタリー映画として丁寧に作られてはいるし、編集コンセプトも意図がきちんと理解出来るものである。

 だが、長すぎる。

 「音のない世界で」が99分、「新・音のない世界で」に至っては何と105分もある。「ドラえもん・新・のび太の日本誕生(2016年日本、八鍬新之介監督)」でさえ104分だ。筆者はドラえもんの映画なら104分が105分でも一向に気にならないが、「新・音のない世界で」の105分は苦行であった。どちらの作品も、この程度の中身なら30分でまとめられるはずだし、それで充分だし、それ以上長くしたら最後まで見るのは「うちわ」の人間だけである。

 そこが問題なのだ。まさに。

 たしかにどちらの映画も、ろう者コミュニティに関わりのある者ならば「ろう者あるある特集」であり、各所にツッコミを入れながら楽しく見られるであろう。見終わった後に、仲間同士で語るためのネタも満載のはずだ。だが、それでは、これらの映画が取り上げている社会問題の継続的な認知と共感は、ろう者コミュニティの外には広がっていかない。何故ならば、これらの作品は徹頭徹尾プロダクトアウトなデザインだからである。マーケットのことを全く考えていないのだ。それで文句あるか、これはそういうものだと開き直るならばそれで良し。だがこの2作の間の22年間を経て(あまり)変わらなかったフランス社会とフランスのろう教育こそは、「音のない世界で」という作品のある種の敗北の動かぬ証拠である。B2Cビジネスのプロジェクトなら0点が付くようなものだ。

 では、レティシア・カートンは何をするべきだったと筆者は考えるのか。あるいは筆者がレティシア・カートンだったらどうしたのか。

 二つの考え方がある。

 一つはビジネスの考え方である。顧客が望むものを提供することで、顧客をこちらの狙い通りに動かす。その為のツールとしての映画制作という考え方である。まずはターゲット顧客をはっきりさせるのだ。誰をどのように動かしたいのか。ターゲット顧客はフランスの教育行政を担う官僚組織なのか? 政治家なのか? 大衆なのか? 知識人層なのか? 次に考えるのは、いかにしてターゲット顧客層にリーチするかだ。ドキュメンタリー映画というフォーマットは果たして最適なのだろうか? もっと他のフォーマットの方が向いているということは無いのか? 更に考える。ターゲット顧客層は何を求めているのか? 笑いか? 感動か? 涙か? それ以外のものか? 特に官僚組織を狙うなら仕掛けは複雑だ。筆者の経験から言うと、官僚組織をこちらの思うように動かすために一番大事なのは、「それに乗っかることで官僚の手柄になる」ような建て付けをセットアップしてやることだ。その為には徹底的な市場調査やターゲット顧客層との深いコミュニケーションが必要となる。仮説を立てての検証と修正も繰り返さなければならない。PDCAを回すというやつだ。正直、メンドクサイ。だがビジネスで結果を出すには、やるしか無いのだ。

 だが、映画制作はB2Bビジネスではない。だから上に書いたようなマーケティングや営業やPDCAなど無くて当然である。では映画とは何か? アート作品なのか? 仮にそうだとしても、本作はアートとしても2流である。

 現代のアートにおいて重要なのは、モノとしての作品それ自体ではない。そのモノに誰かが接することで(美学の用語では享受と言う)、その誰かの世界の見方を変える、その変え方の鮮やかさである。今まで見ていた世界のありようが絶対的ではないと気づかせる技の洗練を、現代アートは競う。デュシャンが既製品の便器を美術館に運び込んで、これが自分の芸術作品であると主張した時、アートとは誰かの手技によって注意深く作り上げられたモノそのものであるというそれまでの常識が揺さぶられた。ここでデュシャンが創造したのは、モノではなく、それを取り巻く常識を揺さぶるシステムの方だったのだ。このようなシステムの一つとして、「新・音のない世界で」を作ることも可能であったはずだ。

 でも、どうやって? 

 わかりやすい例として、ここでは「ドラえもん」を挙げてみる。

 筆者の個人的な意見であるが、「ドラえもん」シリーズの中には、現代アートと同じ考え方で描かれた作品が相当数含まれている。例えば「見えなくなる目ぐすり」(藤子・F・不二雄『ドラえもん(10)』小学館、1976年収録)では、のび太はドラえもんから、「自分自身が周囲から見えなくなる眼薬」を借りたつもりで、「周囲の人間が自分には見えなくなる眼薬」を借りてしまう。読者はこのエピソードにおいて、のび太の主観と周囲の人間の客観の根本的なズレ、そしてこのズレが大きくなりすぎた瞬間に訪れるカタストロフ、しかしそれでもなお自分の主観から出られないのび太の滑稽さを目撃する。このエピソードで藤子・F・不二雄が問いかけているのは、あなたは今、周囲が見えていますか、周囲から見られていないはずと勘違いしていませんか、という、社会的存在としての人間にとって普遍的な問いである。この問いを通して常識を揺さぶるシステムがエピソード「見えなくなる目ぐすり」なのだ。しかも、このシステムは、同時に良く出来たエンターテイメントとして楽しむことも出来るのである。

 藤子・F・不二雄のような超一流のクリエイターと比較するのは気の毒ではあるが、今作のレティシア・カートンには藤子・F・不二雄のような、常識を揺さぶる問いをデザインする視点が欠けていたと言わざるを得ない。

 これまで、聴覚障害が一要素として含まれる映画やテレビドラマは数多く制作されてきた。その中にはラブストーリーとして、あるいは人間ドラマとして高く評価され、愛されてきた作品も少なくない。だが、愛や人生ではなく、ある領域国家においてろう者コミュニティはいかにして存在すべきかという問題を主題とし、当事者以外にも幅広くインパクトを与える力を持った作品は、管見の限りではいまだ現れていないようである。これは残念なことだ。その背景には、社会問題を扱っていれば、あるいはマイノリティを主題にしたアート作品ということにしておけば、ソーシャルインパクトが小さくともあまり厳しいことは言われないという風潮があったように思える。

 だが、一歩引いて見ればこの10年間はソーシャルビジネスという考え方が普及した10年間でもあったのだ。ソーシャルインパクトを生み出すためにビジネスの手法を採用するのは、今や当たり前だ。また村上隆が『芸術起業論』(幻冬舎、2006年)で言い切っているように、現代アートは売れてナンボのビジネスでもある。

 次に世界のどこかで制作される、ろう者コミュニティを主題とした映画が、内輪受けで終わることなく、広範なソーシャルインパクトを生み出す作品であることを、筆者は願って止まない。