「怒ること」には目的意識が必要と考える理由

怒りに任せて店員に土下座平伏を強要して強要罪で逮捕されちゃうとか、部下の叱責が止まらず暴走するクラッシャー上司とか、この類の方々が何故、ノーブレーキピストみたいなのかふと考えました。

あくまでも仮説なんですが、こういう人たちって目的を認識して行動することが苦手なのかもしれない。

店員にしろ部下にしろですよ、何か非があったのかもしれない。それを「これは良くないよね」と指摘する。普通はそこで「申し訳ございません。以後気をつけます」と反応がある。

その時、実際にはこの両者の間で何が行われているのか。双方の目的は何か。

怒りを表している側に注目してみましょう。

怒りを表すということで、彼/彼女は何を達成しようとしているのか。つまり目的は何か。店員や部下の行動パターンに影響を及ぼし、変化させることです。店員や部下を通常ルーチンから一旦引き離して、謝罪という行為を挿入する。それによって店員や部下の以後の通常ルーチンが良い方向に変化する。

社会的関係性から見た、意味のある行動目的はこれくらいです。(反社会的勢力っぽい人の場合は「金品を巻き上げる」になりますが、これは恐喝なのでやってはいけませんね。)

店員や部下に注目すると、怒りに対応して謝罪という行為を実施することにより、相手を「怒りの表明」という特殊な行動から通常の状態に復帰させることが行為の目的です。

では、何故、しばしば強要罪逮捕コースに逸れる人が現れるのか。おそらくは、上記の目的を見失い、自身の怒りの感情の解消を相手に求めてしまっているのではないか。

ですが、感情をなんとかするのは自分の仕事なんですね。社会的存在としての人間においては。相手が謝罪した。ならば腹の虫が収まらなくても、行動変容という目的はひとまず達成として矛を収めるしかない。その先には強要罪や恐喝やパワハラの世界しかございません。

怒ることは誰もあって良いと思います。ですが、その表出は原因となっている対象の除去や好転を目的とするべきであり、怒りそのものの除去は、怒りの表出によっては達成しえない。

と思うのでした。

シンプルに言うと、怒る時は「これは良くないよね」という問題提起の形を取る方が良く、「謝れ! 俺に謝れ!」とか「それで謝ってるつもりなのか!」とか自分が口走り始めたら要注意と。
怒りそのものの除去を目的として怒りを表出してみても、相手にはどうしようもないですよ。
「謝れ!」
「謝ってるじゃないですか!」
「それで謝ってるつもりなのか!」
「お前こそしつこいよ。」
日本近現代史を思い起こせば、こういう関係不毛だってわかろうもんですが、ま、沢山ありますけどね、日常生活には。