失恋と「幸福な自分の死体」

大失恋の痛手からいつまでも立ち直れないんですがこれは一体どうしたことでしょう、という相談を受けました。
失恋したあとの辛さというのは不思議なものです。人の感情を喜怒哀楽と分けますけれども、失恋のダメージについて「哀しい」という表現は、あまり適切ではないようです。もちろん振られたことは哀しいけれども、その哀しさが辛さの出処なのかというとあまりそんな感じでも無いような・・・
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じゃあ、かつて持っていた価値あるものが失われたことの辛さなのかというと、例えば私は毎年ゼミの受け持ちが終わって担当学生たちと離れる時はとても寂しかったけれども、失恋の辛さとは全然違うのではないかと。とすれば上記の理論も当てはまりません。
一つの仮説として私が20年以上前から持っているのは
「あるはずだった未来の自分が消えてしまったことの喪失感」
が失恋のダメージの出処ではないかというものです。失われたのは自分自身ということです。
失恋のダメージというのは、自分が思い描いていた自分でなくなったダメージ。本来そうであるべき自分が日々失われていく辛さなのではないか。
なので、失恋の時点で自分が未来に描いていた幸福な自分のイメージを超える幸福な自分になったと感じた時に失恋の辛さというのは無くなるのではないか。
しかしながら、ある時点で自分が考えていた「未来の理想の自分」を、失恋でセットバックされた現実の自分が越えていくのは大変です。だって理想的なペースでレースが展開した選手を、落車事故で怪我してバイクも交換した選手が追走して追い抜くようなものですから。
だから時間がかかるんじゃないのかな。
失恋してすぐは、振り向けば「あったはずの幸福な自分の未来」が目に入るし、元カノや元カレにばったり会っちゃったりしたら、「幸福な自分の死体」が晒し者にされているのを見るようなもんで本当に凹む。
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でも、一歩ずつ進んでいるうちに、「一度は未来を失った自分」だからこそ手に入れられたものが増えていく。それは辛くても歩き続けたからこそ手に入ったんだから、よりグレードアップした自分の到達点と言える。
そのうち「あ、あそこからこんなに歩けたんだ」って驚く日が来る。その時には、その失恋のダメージは財産に変化しているでしょう。
というようなことをご説明して、まあまあ納得して頂きました。
丁寧なカウンセリングが熊商会の売りでございます。