ありがた迷惑は人生の始まりだろう。

恵まれない子にランドセルを贈るのはありがた迷惑だから止めろという炎上狙いのブログが狙い通り炎上しているのを見て思ったこと。

ありがた迷惑という言葉を決め技にしている人は人間の基本を分かっていない。
そもそも論で言えばこの惑星のその土地その時代にその体で産み落とされたことそのものが「ありがた迷惑」の最たるものではないか。
人生はありがた迷惑としてスタートする。ここでこの時代にこんな初期値で産んで下さいでスタート出来るのはゲームの中だけだ。人生とは大宇宙から一方的に送りつけられたありがた迷惑な贈り物だ。
そのありがた迷惑で届いたものをいかに工夫して価値を高めていくかが人生というゲームのルールだ。
人生に限らない。贈り物とは殆どそういうものだ。希望通りのものが届かないから面白いんだろサンタさんの靴下攻撃は。そこからいかに価値を創造していくか。希望と現実のズレをいかに埋めるかが、結局のところ人生そのものの根本だ。ままならないから工夫する。ままならないから努力や成長や進歩が生まれる。
ってハンバーガー屋で隣の席に座ってたマルティン・ハイデッガーが(以下略
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下らぬ戯言をこねているヒマがあったら工夫すべきだ。ありがた迷惑を否定して人間は成立しないのだから。