私の指導で素晴らしい卒論を書いたある学生が、卒業式のあとにこんなことを書いていました。
自分は怠け者でいい加減なキャラとして大学では周囲からも教師陣からも認知されていたし、自分もそう思っていた。ところが鬼畜先生が私のキャラを知らずに、お前のテーマなら最優秀論文賞を狙えるから一緒に勝ちに行こうと言い出した。そのまま勢いで頑張って卒論の研究をやってみたら、結果的には大学での勉強で一番面白く充実したものになった。自分のキャラに埋没するのは実はもったいないことかもしれない・・・・
ある人物の内面を理解する際に、この「キャラ」という概念を日本人が用いるようになったのはいつ頃でしょうか? 私の個人的な記憶を遡ると、最初にこれを聞いたのは1996年の夏頃、「SMAP×SMAP」という番組における木村拓哉さんの発言だったと思います。もう17年前ですから、今の学生たちが物心ついた時には、既にこうした発想は一般的だったのでしょう。
この「キャラ」概念の弊害を如実に私が感じるようになったのは、ご存じ日本企業の新卒採用試験です。日本企業はエントリーシートから2次面接くらいまでの間に、「あなたを一言で表すと何ですか?」「あなたを動物に喩えると何ですか? その理由は?」「あなたがこれまでに経験した最も高いハードルは何でしたか? あなたはそれをどう乗り越えましたか?」といった質問を学生たちに浴びせ続けます。
私はここに、少年ジャンプ(のような漫画雑誌)における冒険パーティーのキャラクター設定の影響を感じています。実際の人間は多面的であり、一言二言では言い表せない幾つもの特徴を持っています。傍若無人だけど面倒見が良いとか、適当人間だけど細かいところに拘るとか。ところが今の日本では、そうした複雑性や個人の内面の矛盾を無視し、個人を単一のわかりやすい「キャラ」に還元します。そしてその「キャラ」がこれまでにどんなボスキャラをクリアしてきたかで、その「キャラ」の能力や経験を判断しようとします。
ま、企業がどんな採用行動をしようと自由ではあるのですが、問題なのは、この「キャラ」概念があまりにも日本社会に蔓延したため、多くの人が「キャラ」で自他を理解するという発想に疑問を抱かなくなっているという点でしょう。それが冒頭に紹介したエピソードに繋がるわけです。「キャラ」で自分自身を理解してしまった為、自分の素晴らしい能力の存在を、変人教員に指摘されるまで見落としていた。
そればかりではありません。この「キャラ」が自分の行動の言い訳にさえ使われているように思います。「自分、ダメキャラなんで(講義サボってもしょうがないっすよね?)」「自分、キレるキャラなんで(わかっていてキレさせる方が悪いんだよ?)」「自分、引きこもりキャラなんで(新しいことに挑戦するなんてキャラがブレるじゃないですか)」etc. そういうキャラ設定なんだから、自分は設定に従って行動しているだけと言わんばかりです。
自分を「キャラ」の枠の中に埋没させないこと。他人を既存の「キャラ」で理解しようとせず、自分自身の目と耳でその人間性を見極めること。これから職業人として、あるいは学生として新しい環境に飛び込んでいく方々には、出来れば心がけて欲しいなと思います。もちろん私も、そうします。