「写真の現在4」は村の青年会のお披露目のようだった

 昨日は国立近代美術館を見て来ました。とにかく寒かった。空調効き過ぎです。Tシャツ一枚じゃ無理です。だって警備の職員さんたちスーツ姿ですよ。クールビズとかじゃなくて普通のスーツ。それで丁度良い温度でした。遭難するかと思った。

 お目当ては「写真の現在4」だったんですが、これがまた本当につまらない企画展で、3分くらいで見終わってしまった。コンセプトもつまらないし作品そのものも力が全く感じられず。3階でやってた石本泰博の企画展は見応えあったんですがね。「写真の現在4」は現代日本の写真サークルという限られた文脈でしか居場所が無いと思いました。石本の写真は美術館の外に出してその辺歩いてる人に見せても「お、良いね」と言わせられるだけの力があると思います。

 例えば林ナツミさんの一連の浮遊作品など、まず表現として素晴らしい力がある。他にもウェブ上には日本写真村の人じゃない撮り手による新しくて面白くて力のある作品が山のようにある。「写真の現在」、何でああいうものが選ばれないのかと思いました。ここ時間止まってるじゃん、現在じゃないじゃん。

 PinterestとかTumblrとかFlickrとかFacebookで世界中から面白い写真が日々流れてくるのが「写真の現在」だと思います。エッジ感ゼロの被写体が写ったゼラチンシルバープリントをちまちま焼いて美術館の中にぶら下げておくというのは20年くらい前の「現在」ではないか。 「写真の現在4」、時間が止まったような辺境の寒村に迷い込んだような、そんな気分でした。村の青年会の新入会員お披露目会みたいな、そんな空間。

 もう一つ感じたのが、写真というメディアとホワイトキューブの相性の悪さです。PCモニターや雑誌やポスターやチラシやカメラ女子のアルバムの中ではあれほど生き生きして見える写真が、ホワイトキューブにかけられた途端に死体に見えるのは何故なのでしょうか。 写真は消費されてナンボ、消費の現場のダイナミックな時間の流れの中にあってこそ写真というメディアは最も輝けるのかもしれません。とするならば、ホワイトキューブで行われる我々の作品展は、いかにホワイトキューブの中に消費の現場を作るかということが課題となるように思います。

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