それって光久?

元参議院議員の田村耕太郎さんという方がツイートしていたこの問題、日本史研究者や日本思想史の研究者でも答えようが無いと思うのですが、田村さんはこれをどういう意図でツイートされたのでしょうか?

https://twitter.com/#!/kotarotamura/status/186419234136530944

まず気になったのは、15歳で元服した後、何歳の時だかはわかりませんが初めて戦場に出る際に、「殿様である父親」に手紙を書くという設定。殿様ということは父は大名ですから、彼は大名の家の息子ということになります(嫡男かどうかは不明)。ということはですよ。これ、おそらく江戸時代じゃないんです。というのは、江戸時代に殆ど戦争は無かったので、幕末期のものを除くとアイヌモシリで発生したシャクシャインの戦い(松前藩とアイヌが戦った)か、九州の島原の乱くらいなんです。

それで、シャクシャインの戦いでは松前藩主の松前矩広の子供達は参戦していませんし、島原の乱では島津家以外は全て藩主が出陣しています。島津家は当主家久が老齢であった為、嫡男の光久が代わりに出陣を命じられましたが、直後に家久が死去した為、結果的には家臣の山田有栄が島津光久の名代で薩摩藩の将兵を率いて参戦しました。

ですから、史実を見るとこの問題に辛うじて当てはまる事例は島津光久だけですね。あるいはそれ以前の大坂夏の陣や冬の陣、関ヶ原の戦いなどなど。

ですが、ここで更に難しい問題があります。今日的な意味での武士道というのは1900年に新渡戸稲造が著した『武士道』が出発点になっているのですが、これは新渡戸がアメリカに滞在した際、アメリカのプロテスタントの禁欲主義に感銘を受けて、それに相当するようなものを日本思想の中で探した結果、武士道というキーワードを思いつき、プロテスタンティズムに対抗出来るような倫理規範が日本にもあるのだということを主張すべく、半ばフィクションとして創り上げたものなのです。

江戸初期、夏の陣や冬の陣の頃までのサムライの行動規範は「家の存続の為なら何でもやる(裏切りも主人替えも超OK。自分の実力を一番高く買ってくれる主人のもとに行くのが当たり前)」というもの。新渡戸の武士道とは全然違うのです。ですが、実は私も以前に江戸初期以前の武士の思想について調べたことがあるんですが、まとまった研究書って出ていないんですね。私も結局は岩波書店から出ている『日本思想体系』の26巻「三河物語・葉隠」や27巻「近世武家思想」などのオリジナルテクストを参照しました。

とすると、この問題、先生が実は日本思想史に相当詳しい人でなければ、新渡戸の武士道を使って江戸時代だか戦国時代だかもはっきりしないような設定で答案を書かせているということで、まあ正直雑ですね。日本文化をきちんと学んでいる人間なら、呆れるべきとこだと思うんです。

違う?