昨日は「南山の自然を守る会」(区画整理絶対反対から「里山コモンズ案」の提案に進んだグループです)主催のタケノコ掘りに顔を出してきました。一昨日たまたま市役所の前で「守る会」の会長さんにお会いしたのですが、その時「かとうさんも明日来てくださいよ~」と圧力をおかけいただいたので(笑)。
いや、楽しかったですけどね。
ただ、同時に色々なことも考えさせられたイベントでした。
守る会さんが地主さんからタケノコ掘りの許可をいただいている竹林に到着すると、既にそこには先客が。どうやら地主さんの親戚の方々らしいです。ゴールデンウィークだし良い天気だし今日はひとつタケノコご飯ということでしょうか。イベント参加者と合わせて数十人が一つの竹林でタケノコ掘りを展開します。当然ながら一人あたりのタケノコの数は少なくなります。
いわゆる「コモンズの悲劇」の構図ですね。限られた入会地、限られた共有資源に入会権を持つ人々が一気に殺到すると、入会地の資源が過剰使用の状態になってしまい、資源の再生能力そのものが減退してしまう。まあタケノコの場合は掘り尽くしたらそこで終わり。親竹を採っても食えないですから、資源再生能力に影響が及ぶことは無いんですが。
私は息子と二人で参加したんですが、タケノコそのものは市内の朝市で毎日新鮮なものが安く買えるので、この日はどちらかというと地主さんや守る会さんに少しでも現金を流して応援しようというところ。プラスチックのオモチャのスコップでちんまいタケノコを幾つか掘って遊んだあとは、例によって二人で竹林の中を清掃してました。
と、その時、携帯電話にメールが1件。アイヌ・アート・プロジェクトの結城さんからです。また藤崎達也さんなんかと新しい仕掛けを考えてるんだぜ~という内容。先住民の文化が現代文明と隔絶した神秘的なものとして消費されちゃうという現在の風潮を疑問視する立場から、先住民の精神文化が現代文明と直接接続されてこそ最も力を発揮するということを、何とか示していこうということらしいです。
それを読んで私が考えたこと。というか感じたこと。
「今この瞬間、この場所に結城さんが居たら、このタケノコ掘りの光景はどう変わっていただろうか。」
ご存じのように結城さんのような温故知新派アイヌは祈りをとても大切にしています。そして実際に土地に祈りを捧げる「型」を彼らは持っている。この日のイベントは「あ~あ、タケノコ掘りバッティングしちゃったよ・・・・」という気まずい雰囲気で始まったのですが、あの場に結城さんが居たら、「じゃ、タケノコ掘りしましょーか」となった時に「いや、ちょっと待ってください。私はこの山のカムイにアイヌの祈りを捧げてからにしたいんで」というジャブを一発撃てたでしょうし、それであの場の空気は浄化出来たんじゃないかと思う。
もちろん結城さんたちがそういう構えを取っている理由は単純ではなく、アイヌとしてのアイデンティティを確認するということが一番大きいでしょうが、それに加えてアイヌが保持している「自然への敬意を形で示すという文化」を意図的に見せることで、アイヌへの敬意も獲得していこうという戦略もある。ですが、その戦略は私たちメインランドの日本人にとっても利得の方が大きい。そういう意味で、先住民の精神文化は現代文明と切り離さずに、現代文明のまっただ中で現代文明に直リンしてこそ、今日的意義を持ちうるという結城・藤崎会談のテーマは確かに正しいかもな。
などと考えていたのでした。