「南山・何でも検証ワークショップ」はいわゆる「円卓会議」ではありません。
「円卓会議」というのは、広い意味で言う自治の中で何か利害関係がぶつかる問題が発生した時に、利害関係者を集めて取り敢えず話し合ってみようというようなコンセプトです。少なくとも私はそう捉えています。
特に有名なのが、千葉県で試みられた「三番瀬円卓会議」。この事例では2年間に百数十回も会議を開いて、三番瀬をどうするかについて話し合ったと言います。一応、それなりの結論は出して終わったようですが、ある種の環境保護団体からは「行政の下請け・アリバイ作りに過ぎない」と攻撃されているみたいですね。
実は私は、こういった「円卓会議」が地方自治における合意形成の役に立つとはあまり思っていません。何故ならば、特に環境問題とか街作り問題に関しては、「環境問題や街作り以外のことを目的として環境や街作りを語る人たち」が沢山いますし、えてしてその方面の方々が一番声がでかかったりするからです。捕鯨問題と一緒ですね。とにかくゴネてゴネてゴネ続けて合意形成を妨害していれば、ある種の集団の目的は達せられる。その目的とは、「わたしたちが一番、環境のことを考えている」とか「わたしたちだけが行政(でも大企業でも構わないですが)に異議申し立てをしている」という格好を付けること。
文句を言っている姿を見せびらかすことそのものが目的なんだから、妥協は一切拒否して合意形成を潰し続ければ、それで良いわけです。周囲の疲労ばかりが蓄積していく。
だから私は「円卓会議」なんかに合意形成を期待するのは間違っていると思います。それは時間の無駄。「荒らしに反応するあなたも荒らしです」とまでは言いませんが、この種の荒らしを必然的に呼び込んでしまう「円卓会議」はいずれ廃れるんじゃないかとは見ています。三番瀬の事例でも合意形成を目指そうとする意思が共有されていることが、「円卓会議」の成功の条件だという総括がなされたようですが、だとしたら。
取り敢えず日本じゃ無理ですね。
私が「南山・何でも検証ワークショップ」のデザインに際して考えたのは、そのことです。ごく最近、ある種の人々が合意形成をひたすら潰して時間稼ぎをするその光景を家の近所で目の当たりにしましたからね。あの連中と合意形成なんてする必要は無かろうと。人生の無駄遣いだそれはと。
そんなことよりも、何が事実でどれが論理的で誰が金勘定をごまかしているのか、それのみを追求する場を創った方が良いと考えたわけです。「南山にパチンコ屋が出来る」「ビバリーヒルズみたいな住宅地をつくる」「都内では高尾山の次に生態系が豊か」。出所の知れない風説はいくらでも流されてきますが、ならば「新市街地のほぼ全域で地区計画により出店規制がかかっているパチンコ店が、南山の地区計画では容認されるという説の確かな根拠は?」「これから街作り協議会が設置されて地区計画が決まるという段階で、ビバリーヒルズのような超高級住宅地が出来るという説を流すその出所は?」「誰がいつ、どんな指標を使って都内の生態系を比較し、どこにその調査結果を発表したのか?」を徹底的に確認する。
確かな資料を示せなかった説は「これは信頼出来る出典が無い主張のようです」と明示する。逆に、どこの誰が言っていようと、信頼出来る資料に基づいた主張ならば「これは確かな情報に基づく主張です」と断言する。
合意形成なんか目指さない。おのおのの主張の信頼度、それのみを測る場です。
私はこれも市民自治の一つの試みだと思っています。意思決定機関としては国会、都議会、市議会が既に存在していますし、時間は無限ではないのだから、どこかの段階で何らかの形で意思決定をしなければならない。その際、ゴネ続けることが時間稼ぎという形でそのままゴネ得になるような「円卓会議」は使い勝手が悪い。それよりも、判断の為の質の高い情報を提供することに特化したシステムを作った方が良いのではないでしょうか。そこから発信された情報をもとに市民が判断し、間接民主主義の回路を通って意思決定が行われる。
日本ではこれからも、環境問題や街作り問題を巡る意見対立が沢山発生するんだろうと思います。その時、合意形成を期待して「円卓会議」をやろうという動きも沢山出てくるんでしょう。でも、ちょっと待ってください。その「円卓会議」は本当に機能しますか? 出来るかどうかもわからない合意形成の前に、まずは市民による事実確認をした方が良いんじゃないでしょうか?
ちなみにワークショップの会場代は前回も今回も全部、私が自腹で出してます。行政の下請けでやってんだろうとか、組合のソックパペットなんじゃないのとか言われているので、はっきり書いておこう(笑)。