南山論争とパターナリズム

 稲城の大規模宅地開発を巡る論争は相変わらず平行線を辿っています。

 事業の一時停止を求める市議の一人は(この市議は「自分は反対と言ったことは一度も無い」と主張しているので、反対派とは書かないことにします)、自分たちだけで対案を具体的に練り上げると市や組合が反発するので、それはしないと表明しています。
 しかしながら、既に法的手続きを全てクリアして開始されている事業を中止させようかという話をするときに、「まずは事業を止めてください。それから一緒に代案を考えましょう」という提案は一蹴されるだけではないかと私個人は感じます。そもそもこの市議は、事業組合がわざわざ設けた、市議と組合の意見交換会を欠席しているわけで、どんな事情がおありになったのかは存じませんが、組合さんの目には「自分たちと話し合う気が無い」というように映ってしまっているでしょうし。

 これは麻雀で言うところの「アガリ放棄」ではないか。そんな気さえします。まず共産党さんや「市民自治を前進させる会」さん、富永市議らがすべきなのは地権者との信頼関係の構築ではないかと。

 さて。具体的かつ現実的な対案が示されないまま時間は徒に経過しているのですが、その間に週刊誌への開発批判記事掲載やウェブ署名やアースデイでの宣伝活動などが進められておりまして、南山問題の知名度は日々上がっております。それが良いことなのか悪いことなのか、一概に決めつけるわけには参りませんが、一つだけ明らかによろしくない現象が見受けられます。

 パターナリズムという言葉をご存じでしょうか?

 「あなたの為にはこれが一番良いんだから。私はあなたのことを考えて言っているんだから。」という論法を使い、肝心の本人の考えをお座なりにしたまま話を進めようとする態度のことです。例えば医者と患者。例えば宗主国と植民地。例えば先進国と発展途上国。伝統的な日本語では「お為ごかし」と表現しますが、最近登場したスラングで言えばあれですね。

 「上から目線」

 最近私は、南山問題にも最初期から関わっている市民運動家の菊池和美さんが出された、稲城のエルダー(長老)の皆さんに対する聞き書きをまとめた本『ふるさとむかしむかし』(自費出版、2009年)を読んだのですが、この本を読んでいて感じたのは、稲城の長老たちが貧乏に耐えながらもたくましく、そして臨機応変に生業を修正して家を守って来られたという、端的な事実の存在です。

 梨が儲かるとなれば水田を潰して梨畑に。酪農でやっていけそうだとなれば牛を飼い、鶏卵が売れるとなれば鶏舎を建てる。水が足りないとなれば井戸掘りの技術を磨く。素晴らしいバイタリティの事例が山ほど収録されている。これだけの実績と経験をお持ちの方々が話し合って決められたことですから、宅地開発に賛成にしろ反対にしろ、まずは稲城という土地の先住者である地権者の方々のご判断に敬意を払う必要があるのではないか。「よくわからないまま大企業の口車にのせられて判をついちゃったんじゃないの」などという先入観で地権者の方々を見るのは、失礼でありまた僭越でもあるように思いますし、「わたしたちは地権者の方々のことを考えて事業を中止した方が良いと言っているのです」という言い方は、パターナリズム以外の何ものでもないと考えます。

 南山の開発に賛成、容認、反対など色々な意見があるかと思いますが、パターナリズムに陥ることだけは絶対に避けるべきである。私はそう考えます。