男女平等が進まない理由の一部は、多分

 ここ半年ばかり男女共同参画推進協議会というところに参加してみて、痛感したことがあります。

 男女共同参画と女性地位向上を等号で捉えている人がやたら多いってことと、そうである限り、男女共同参画の実現には限界があるだろうなってこと。

 男女共同参画というのは、私の理解では、人間がその生物学的性別に関わりなく、自身の可能性を男性も女性も平等に追求し、自身の望む形に最も近いやり方で社会に参加するということです。この中には、例えばサラリーマン生活より子育てが好きなオスが専業主夫になったり、有り余る資産を持つ夫婦が仕事をせずに趣味と子育てに専念したりということも含まれます。

 ここは注意すべきとこですよ。正規雇用の労働者や実業家になって現金収入と名刺に刷り込む肩書きを上げて行くことが、あらゆる成人男女の望みではないし、望ましい生き方でもない。家庭の事情や世帯収入との兼ね合いを睨みつつ、出来る範囲で好きな生き方をする、その際に、お前はオスだからとか、俺はメスだからとかいうことが考慮すべき条件として優先されない、それが男女共同参画だと私は思っています。

 しかしながら、私が見聞きした範囲では、日本の男女共同参画系の方々の極めて多くが、メスの取り分を出来るだけ増やすこと=男女共同参画だと考えているらしいんですね。でも、これは申し訳ありませんが、愚かなことだと思います。そのような発想から抜け出せない限り、いつまで経っても女性は男性の後塵を拝す羽目になると思います。

 何故か。

 考えてみましょう。メスであることが現代の日本において不利に作用するのは、子育てや介護という営みを優先的に引き受けるのはメスであるべきだという考え方や慣習が、今なお色濃く残っているからです。ではどうすれば良いのか? 子育てや介護をオスメスの区別無く、五分五分で社会の成員たちが引き受けるような世の中にしていくというのが王道です。

 ところがですよ。今現在推進されている「男女共同参画」関係の施策の多くが、そうやって育児や介護を引き受けている最中/引き受けた後のメスの為に、割を食った分を補填していくという発想でデザインされています。例えば再就職支援という施策があります。育児や介護を終えた「女性」が対象の施策です。児童福祉手当というのもあります。「母子」家庭に限って支給される現金です。

 つまり。仮に夫婦を構成するオスメスのうちオスの方が、敢えて仕事を辞めて数年間育児に専念したとして、再就職支援はメス限定の施策で門前払いにされてしまいますし、そうやって育児をしている間に妻が死んでしまった時も、育児の為に仕事を辞めたのがメスだった場合には貰える現金が貰えないんです(遺族年金も貰えないんだぜおい)。

 しかも、そういうことを私が指摘すると、必ず「でも、女性の問題の方がはるかに大変なんだから」という反論が返ってくるのです。この反論は、目に見える現象とそれを生み出している構造を弁別出来ていない、有り体に言えば知的レベルの非常に低いものだと思いますがね。私は。

 現象として今現在、オスよりはメスの方がより多くの「困難な事例」の主体であることは事実です。それは認めますよ私も。しかし、そうした現象を生み出しているのは、「メスがメスだから」ではないのです。「育児や介護に専念する家事労働者をキャリア形成から排除する社会慣行」および「非正規雇用者の待遇の劣悪さ」、「家事や介護に専念した経験を持つ人々への公的保障の小ささ」という社会構造がそうした現象を生み出しているのであり、オスであろうがメスであろうが、育児や介護に専念する家事労働者はドカンと割りを食わされる点で変わりは無いのです。

 ところが、愚かなる人々はこうした問題を改善する為の施策に生物学的性別を要件として入れてしまう。要は「女性」とか「母子」という概念を社会政策に安易に持ち込んでしまうので、余計オスが育児や介護領域に手を出しづらくなるんです。

 私は日本の育児には今の50倍くらい、父親が手を出すべきだと思っています。ですが、男女共同参画系の方々が政策立案におけるジェンダーとセックスの混同の愚に自分たちで気づかない限り(指摘されてもヒステリーを起こすだけな感じなんだなあ)、この壁は打ち破れないでしょう。

 ご愁傷さまです。あ、パドリングする前に舫綱は外した方が良いよ。進まねーから、ちっとも。