たった二人のマニア

 面白い本を読みました。

 このウェブログで扱う話題とは何の関係も無い本なのですが、学術系マニアというものの生態や悲哀を面白く描いていて身につまされたので(笑)、紹介します。

金子隆一『知られざる日本の恐竜文化』(詳伝社、2007年)

 著者の金子さんはサイエンスライター。ですが出身は中央大学商学部、つまり私大文系です。私大文系なんだけど、自然科学的なものが大好きで、ついにはそういう世界についての文章を書くことが本業になられた方ですね。特にお好きなのが恐竜だそうで、この本では日本の恐竜マニアや恐竜ビジネスの世界を取り上げています。

 恐竜マニア。航海カヌーマニアは恐竜マニアがどんなものなのか、この本を読むまで想像も出来なかったのですが、読んでみて大いに納得。いや、深く共感。俺と同じだ、こいつら。

 そうです。恐竜マニアも航海カヌーマニアも本質は同じ。最初はごく一般的な興味のもとに、一般的な本や雑誌を読む。やがてそういった二次情報・三次情報では物足りなくなって、実物を見に行く。学術書や学術論文を買いあさり、読みあさる。本職の研究者と知り合いになり、議論に花を咲かせるようになる。

 そうこうしているうちに、巷の二次情報・三次情報の古さや誤りが気になってしょうがなくなる。博物館の展示会の誤りを発見してしまい悲しくなる。

 似ている。あまりにも似ているよ俺たち。

 恐竜マニアと航海カヌーマニアの類似はそれだけではありません。恐竜マニアは、マニア度が深まるほどに、そのマニア道の対象である恐竜を突き放して見るようになるのだそうです。マニアが論文や学術書を読み込めば読み込むほど、恐竜というものを通してその先に広がる、生物学の深淵な世界そのものを見渡すようになると言います。こうなると、恐竜は入り口に過ぎなくなると。

 同じような話は以前にも読みました。自動車評論家の福野礼一郎氏は、自動車マニア道を突き詰めていって自動車工学の論文や学術書を読みあさるようになり、やがて工学という、より広い世界の深淵な魅力に引き込まれていったと言います。福野氏は言います。

「本質の宇宙は地下に広がっている。穴も深く掘っていけばいつか貫通する。何穴貫通させても出るところは同じだ。浅い穴を何本何年掘りまくってみたところで、決して本質の宇宙には貫通できない。」

 まあ、私が航海カヌーの穴を掘って本質の宇宙まで貫通させたかどうかはわかりませんが、掘れば掘るほど深いなこの穴とは思って、相変わらず掘っています。あくまでも趣味で。自分の趣味のために。掘れば掘るほど、航海カヌー以外の色々なことをも勉強しなければならなくなります。アイヌのことも、NPO経営論も、全部この穴を掘っている途中で通った地層です。次から次へと色々なものが出てくる。こうなると、もはや最初に穴を掘り始めた地点の座標「ホクレア」というものは、実際のところ殆どどうでも良くなっている。

 それどころか・・・・これはここだけの話ですが、本来の自分の専門である音楽学や障害学や社会学より、こっちの穴を掘るほうがよほど楽しくなっていたりもします。かといって私が「航海カヌー研究者」に転向することは金輪際ありませんけどね。航海カヌーは趣味。趣味だからこそ幸せに掘っていられるんだから。一方、音楽学や障害学や社会学は社会貢献の手段、ボランティアの一種です。あれは町のゴミ拾いと同じね。誰かがここに落ちているゴミを拾ってゴミ箱に入れなければいけないのに、誰もそれをやろうとしないから、私が拾って片付けているだけです。音楽学に関しては、博士論文で本質の宇宙まで一本穴を貫通させたという手応えもあって、とりあえず一段落付けたかなという思いもありますしね。

 さて、このように考えてみると、日本には航海カヌーマニアは私を含めて二人しか存在しないのだなあと、改めて感じます。もう一人の航海カヌーマニアは十河学さん。十河さんは、私も持っていない激レア絶版高額洋書をお持ちなくらいだし、ホクレアが流行るずっと前からハワイやミクロネシアを歩き回って色々な航海カヌーに触れておられました。

 もちろん、日本には今や無数のホクレア・ファンがおられますし、「ファン」としてホクレアに関わるその関わり方を私は全く否定しません。ですが、航海カヌーマニア魂が純正律完全五度で響き合った相手は、後にも先にも十河さんしかおりませんね。私と同じだけのテンションで航海カヌーマニアの鐘を鳴らしておられたのは彼一人でしょう。疑いなく。

 ファンとマニアの違い。それは、求めるものの違いです。マニアが求めるのは事実です。より多くの事実を収集して、事実の体系を自分なりに構築していくのがマニアです。それではファンが求めるのは何か? ファンは真実を求めます。真実というのは、ある人物が実存をかけてそれを信じられる命題のことです。例えば「フェラーリは世界最高の自動車メーカーである」という命題は、多くの人間にとって事実と認められないものですが、一部の人間にとっては、その人間の存在そのものが拠って立つ世界観です。この命題が真であるということを前提にして、その人間の自我が構築されているのです。

 もっと解りやすく説明しましょうか。航海カヌーマニアは航海カヌーについての事実を貪欲に収集します。そうして収集した事実の中に、それまで収集した事実によって己が構築した航海カヌー観を揺るがすものが現れた時、航海カヌーマニアはむしろ喜びます。俺はまた一つ深い地層に到達したと思うからです。世界観の変容にカタルシスを感じるのがマニアです。

 ではファンはどうでしょうか? 私はホクレア・ファンではないので断言はできませんが、ホクレア・ファンの皆さんにはある確固としたホクレア観があって、そのホクレア観を揺るがしかねないような言説は受け入れられないことが多いようには思います。それは、ホクレアという船についての真実が浸食されることは、ホクレアという船についてのある命題を自我の一部としている方々にとっては、自我が浸食されるのと同義であるからかもしれません。

 繰り返し言いますが、これは、どちらが良いという話ではありませんよ。聖母の処女懐胎や神と子と聖霊の三位一体を信じている人が、それを信じていない人より劣るなどということが無いのと同じです。

 ただ一つ言えるのは、より安定した生活を送れるのは航海カヌーマニアではなくホクレア・ファンだということです。航海カヌーマニアの探求に終わりはありません。この世に航海カヌーと航海カヌー研究者が存在する限り、事実は際限なく増え続けます。一方のホクレア・ファンは、既に己が拠って立つ真実を確立させ終わっているわけですから、別に新しい情報を取り込まなくても何の問題もありません。

 航海カヌーマニア道は、言ってみれば果てしなく続く坂道を自転車で上り続けるようなものなのです。本物の変態以外には選べない道です。

 そうです。変態です。異常な欲望を抱え込んだ存在が航海カヌーマニアなのです。航海カヌーについての全ての事実を取り込みたいという狂気こそが、航海カヌーマニア発症の根源なのです。ここは重要な点です。航海カヌーマニアを突き動かしているのは欲望です。欲望以外の何物でもない。彼は自分の欲望を満たす為に航海カヌーを追求しています。

 これは、実は特権的な位置なのです。他の皆さんは、もっと崇高な大義の為に活動しておられますが、私だけは違う。私は自分自身の欲望の為にやっている。だからこそ、航海カヌーと心中できる。この欲望が枯れない限り、果てしなく利己的に航海カヌーを追求することができる。ざまあみろ、俺たちだけが変態なんだ。お前らはみんなノーマルだ。悔しかったらこっちに来てみやがれ。

 日本にたった二人のマニアです。世界に一つだけの花であるよりも、それは甘美なことです。