山本浩貴も五野井郁夫も松浦寿輝も
「飯山由貴が西美でやったゲリラデモは正しかった」
という結論から逆算して擁護論文を書いちゃったので、結果として
「西美でのゲリラデモは百点満点で文句の付け所など無いパーフェクトゲーム。異論は認めない。あのパーフェクトゲームっぷりを理解出来ないヤツがアホ」
という文章になってしまっている。
だが世間の大人の常識として、よほどの奇跡的なプロジェクトでない限りは反省点などいくらでも出てくるものなので、どこからどう見ても文句のつけようがないパーフェクトゲームだったと自画自賛してしまっている時点で胡散臭さが漂ってしまうという、ちょっと皮肉な構造が醸し出されている。
「たしかに飯山由貴たちにもやり過ぎな点、至らない点、矛盾点など色々あったと思うが、そういうこともまた反省点として活かしつつ、美術館での政治的アピールとは何かという問題や、アートの世界はガザやウクライナの問題にどう関わっていくべきかを、各自が一旦持ち帰って考えていくのが建設的なんじゃないですか」
くらいが、一番前向きな落とし所だろう。
だが、ツイッターを中心としたウェブ言論マウンティングバトルの感覚が染み付いた論客たちは、そういう発想を持てないようだ。謝ったら負け、はい論破。そういう感覚で日々を闘っている。結果、大した影響を世の中に与えられずに、自分たちもまたコンテンツとして消費されて終わる。
企画展終了とともに五体満足成人前提の作品展示高さに戻った点なども実に示唆的だが、ホームレスにしろ身障者や育児者にしろパレスチナ人にしろ、アーティストたちにコンテンツ化されただけで終わった感は否めない。
それが良いことか悪いことかは各自の判断で。
確かにすべて戻っていた。
そこに、「視線の低い人」の存在は見えていない。透明になっていた。常設展すべての場所を回ってみた。展示の位置が低くなった展示作品はどこにもなかった。あまりに納得できないので、思わずインフォメーションに聴きに行った。
私「以前展示位置を低くしてベビーカーや車椅子の人も見やすい配置を行っていたと思うのですが、もうそれは行わないのでしょうか」
係の方「はい、あれは企画展での実施でしたので企画展と共に終了しました」
私「企画展が終わっても視線の低い人は美術館に来訪しますよね。でも企画展が終わったので終了なのですか」
係の人「申し訳ありません。企画展は終了したので」