私は昨日、『漂海民バジャウの物語』が、日本語で読めるバジャウについての本では群を抜いて素晴らしいと書きました。
門田さんの本も良いのですが、若者の漂泊記に多い自問自答が延々続く箇所もあって、そういう時期を生きている方はとても共感出来るでしょうけれども、そういった時期を既に過ぎてトウの立ったおっさんには、少しくどい(先日、門田さんから、このウェブログに書いた書評を読まれたというメールを頂いてしまいました。門田さん、ごめんなさい・・・・)。
さて実は、バジャウについて書かれた本の邦訳がもう一冊あります。
ミルダ・ドリューケ(2003年)『海の漂泊民族バジャウ』 畔上司訳
ついでにこの本も紹介しておきます。
結論から書きます。駄本です。群を抜いて酷い。読んでいてバカが伝染るんじゃないかと思ったくらい。
著者はドイツで活躍する写真家でありライターだそうです。そして成功した実業家でもあった。
主に『エル』や『マリ・クレール』で仕事をして、編集プロダクションも作って成功したのですが、ある時会社も家も売って、その時つきあっていた男性と一緒にヨットで世界一周の旅に出たんだとか。それが1980年代後半の5年間。その後、また仕事に復帰したのだけれど、またボヘミアンに戻りたい気持ちが膨れあがってきた。
そんな時、著者はバジャウの話を耳にします。一生を海の上で過ごす漂泊の民。そのロマンチックなイメージに惹き付けられた著者は、バジャウを研究している人類学者のもとに出向いて、フィールド調査に同行させてもらえるように頼みます。人類学者はこれを許可しますが、結局著者を置いて一人でフィールドに行ってしまいます*(その気持ち、わかりますよ、先生!)
そこで著者は一人でインドネシアへと乗り込んで行くのです。噂だけを頼りに海辺の町へ。サマスという町だそうですが、どうにもその場所を特定できません。ジョグジャカルタの近くにサマスという町はありますが、バジャウが主に暮らしているスールー海やマカッサル海峡とはまったく離れた場所ですし・・・・。ともかく、そこでバジャウについて尋ねると、人々は知らないという。やっと人々がつてを頼ってバジャウに紹介してくれると、そのバジャウは昔ながらの帆走カヌーではなく、船外機を使ったカヌーに乗っています。すると著者は、「これは私が会いたいバジャウではない。帆走カヌーに乗っているバジャウはいないのか。」とゴネるのです。
そんなバジャウは1970年代の内戦で壊滅しています。バジャウに関する文化人類学の文献を事前に読んでいれば、そんなことはドイツにいてもわかるはずです。
しかし著者は諦めません。唯一、まだ帆走カヌーを使っている老人がいるらしいとの噂を頼りに、執拗にその老人を捜します。彼女は独白します。
「今、不意にわたしは知った。ヨットで世界一周をしたり、現在漂海民探しをしているのは、もっと自分らしくなるためなのだと。海はわたしに、何とも名状しがたい気持ちを思い出させてくれる。だからわたしはここに来たのだ。自分本来の姿に戻ろうとしているのだ。」
著者が探しているのは、過去のバジャウの姿です。バジャウは彼女の目の前にいます。しかし彼女は彼らをバジャウとは認めません。彼女にとってバジャウとは、おとぎ話の中に出てくるような、帆走カヌーに乗って流離い続ける海のジプシーなのです。
要するに、自分のストレス解消の為に、珍獣としてのバジャウを探し続けている。彼女は自分だけの為に珍獣ショーを演じてくれるバジャウを探しているのです。私ならこう言って著者を追い返したと思います。「自分の痰は自分で飲み込め。俺たちの家まで痰を吐きに来るな!」
結局彼女は、ようやく見つけた帆走カヌーを使うバジャウの一家のところに駆け寄り、しばらくの間居候させてくれと頼みます。いきなりです。昨日紹介したニモは、何ヶ月もかけてフィールド・エントリーしました。しかも自分で家船を買って、それに乗ってバジャウの人々の生活の中に入れていただいた。それは外部からの闖入者が取るべき最低限の礼儀だと私は思います。
不幸にも彼女を断れなかったであろうその一家は、快く彼女を居候として受け入れるのです。狭い家船に。お気の毒なことです。
彼女の傍若無人な振る舞いはこの後も続きます。バジャウとの生活に疲れたと言ってはシンガポールでシティ・ライフを満喫しに行くし、バジャウの社会が女性差別をしていると言っては非難がましい事を書き、バジャウの生活習慣が欧米人のプライバシー感覚に触ると感じてはイラつき・・・・。
バカが伝染りかねないと私が感じた理由、おわかりいただけますでしょうか?
レポートかなにかでバジャウについて書かなければいけないか、あるいはバジャウなみの忍耐心を持っている方以外にお奨めしません。
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本ウェブログと同じくホクレア号に興味を持っておられる方が、やはりこの本について書かれた書評
* フィールド調査というのは文化人類学者にとっては仕事の場なのですから、素人を同行するというのは明確に足手まといです。その上、著者はどうもインドネシアに行くまでにバジャウに関する文献を一切読まなかったようです。予習をしなかった。私の所にもたまに高校生や大学生がレポートを書くので色々教えて下さいとメールを寄越しますが、彼らは99%、事前に読めるだけ文献を読んでおくという事をしない。私に聞けば全部教えてくれると思っているのです。そして私が「この本とこの本とこの本を読んでからにしてね。」と返信すると、それでナシのつぶてです。彼らも著者も、何か根本的に勘違いしているとしか思えません。