クリークヴァルト公国史を作り始めたら、そういえば田中芳樹の『アップフェルラント物語』も同じような時代と場所の話だったことを思い出したので、早速、両国の歴史を並べてみました。Kがクリークヴァルト公国、Aがアップフェルラント王国です。
- 15世紀 イスベルバシュと名乗る山師がリンツの近くで鉄の鉱脈を発見し、採掘権を得る。K
- 1529年 オスマン帝国による第一次ウィーン包囲
- 1530年 前年の第一次ウィーン包囲における戦功により、グスタフ・フォン・シュヴァインフルトがドレスデンの西に巨大な領地を与えられ、ザルツラント辺境伯に封じられる。A
- 16世紀 イスベルバシュ家、遠隔地交易と公信用と鉱山経営で財をなす。K
- 16世紀末 イスベルバシュ家、クリークヴァルト方伯領を相続により獲得する。K
- 1618年 三十年戦争始まる。
- 1648年 三十年戦争終わる。
- 1656年 ループレヒト・フォン・クリークヴァルト、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世に5万グルデンの献上金を差し出し、クリークヴァルト方伯領をクリークヴァルト公爵領に陞爵してもらう。クリークヴァルト公国成立。K
- 17世紀末 シュヴァインフルト家が断絶。シュタウピッツ家がザルツラント辺境伯領を継承する。同時に領地の南部をハプスブルク家に返上。爵位がアップフェルラント公爵に陞爵し、ザルツラント辺境伯領の北部がアップフェルラント公国となる。A
- 1806年 神聖ローマ帝国解散。 ライン同盟成立。
- 1815年 ドイツ連邦成立。この後、アップフェルラント公国はアップフェルラント王国を称する。A, K
- 1844年 カロリーナ・フォン・シュタウピッツ生まれる。A
- 1853年 ゴットホルト・フォン・イスベルバシュ生まれる。K
- 1866年 ゴットホルトがクリークヴァルト公爵位を継承。直後に普墺戦争が起こる。K
- 1867年 クリークヴァルト公国、ドイツ連邦を離脱し永世中立国を宣言。K
- 1874年 カロリーナがアップフェルラント女王に即位。A
- 1898年 クリークヴァルト公国と天籟国の縁談が決まる。K
- 1900年 フリートヘルム・フォン・イスベルバシュと天静麗、結婚。K
- 1905年 ドイツ軍、アップフェルラント王国に侵攻する。A
- 1924年 カロリーナ女王死去。アップフェルラント王国はドイツに併合される。A
- 1939年 第二次世界大戦始まる。クリークヴァルト公国は中立を維持。K
- 1945年 赤軍がクリークヴァルト公国に迫るも何故か国境の手前で全ての兵器が故障し、クリークヴァルト公国侵攻に失敗する。直後に第二次世界大戦終わる。K
- 1949年 アップフェルラント社会主義人民共和国成立。A
※クリークヴァルト公国史は森きいこオフィシャル承認申請中(承認済みではないことに注意)。
※アップフェルラント王国の1924年以降の歴史は田中芳樹のあとがきによる。
クリークヴァルト公国に興味をお持ちの方は、是非こちらをお読みください!
アップフェルラントの前身であるザルツラント辺境伯領について。
史実では第一次ウィーン包囲で神聖ローマ帝国側の指揮官だったのはプファルツ=ノイブルク公フィリップ、ザルム伯ニコラウス、宮廷長ヴィルヘルム・フォン・ロゲンドルフで、戦勝の褒美は金羊毛騎士団への叙任でした。この3人の中で一番大きな領地を持っていたプファルツ=ノイブルク公でも、南部領土返上後のアップフェルラント公国(13665平方km)の5分の1の領土しか持っていなかったので、いくらなんでもグスタフ・フォン・シュヴァインフルトは領地もらいすぎだと思いますが……。ザクセン公とかライン宮中伯など選帝侯クラスの巨大領邦ですからね。ルクセンブルクだって2500平方km強だし。以前からあの辺に領地いっぱい持ってた巨大貴族だったのかもしれませんね、シュヴァインフルト家は。それがウィーンの戦功で辺境伯領ももらった?
アップフェルラント公国の王国アップグレードはどんな経緯?
ナポレオン戦争の時に神聖ローマ帝国の諸侯で王国になったのはバイエルン王国、ハノーファー王国、ザクセン王国、ヴュルテンベルク王国。このうちハノーファー王国以外はナポレオンによって王国に昇格させてもらい、ハノーファー王国はウィーン会議で王国昇格の承認をもらいました。アップフェルラント公国はどっちなんでしょうか?
ドイツ連邦におけるアップフェルラント王国
旧神聖ローマ帝国諸侯で王国になっているのは上記四つとアップフェルラントの他はプロイセンとオーストリアだけですし、アップフェルラント王国は領土も超デカイですから、当然、最上位で議会に4票持っているはず。でかい。
普墺戦争におけるアップフェルラント王国
最大の激戦地がちょうどアップフェルラント王国の辺りにあったので、中立というのは無かったでしょうね。プロイセンに付いたのか、オーストリアに付いたのか。ビスマルクとは案外気が合っていたらしいので、プロイセンなのかなと推測。