吉見俊哉『大学とは何か』の結論にヒザかっくん

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書、2011年)読了しました。

大学という制度の歴史を数多くの文献からコンパクトにまとめたという点は大変良いと思います。

しかし後半に進むにつれていつもの吉見カルスタ節が濃厚になり、ページをめくる速度が落ちました。

吉見カルスタ節とは何か。膨大な資料からの引用と解釈が延々続くデータの砂漠のような文章のことです(今思いついた)。データの量は膨大だけれどもそれはデータに埋め尽くされた文章空間が出来ましたというだけで、砂漠に行けば砂がいっぱいあるのと同じ。砂漠は砂のありがたみが極限までゼロに近づく場です。

そして最後この、筑波大学附属高校を1976年に出て以降今に至るまで一貫して東京大学に所属し続けている(副学長にもなった)ミスター東大みたいな社会学者が何を主張するのかと思ったら、ジャック・デリダとウェーバーと、あと私の知らないイギリスのカルスタの人の大学論を長々と引用してから

「「エクセレンス」の大学というそれ自体は空虚な未来系のなかで、大学は今後とも意味を紡ぎ続ける。それが可能であるためには、大学は「エクセレンス」と同時に「自由」の空間を創出し続けなければならない。新しい「自由=リベラル」にポスト国民国家時代の形を与えていくことは、今日の大学に課せられた実践的な使命である」

で本が終わっちゃたよおい!! なんだそれは!! 

彼が最後らへんで紹介した議論を私なりに要約するとこうなります。

まず、19世紀ドイツで生まれた「国民国家を支える機関」として大学のありようは、グローバル時代には成立しないと。今の大学のスタンダードは20世紀アメリカで成立した、大衆向けの教育機関としての学部+プロフェッショナル養成機関としての大学院という2階建て構造で、こうした大学が、いくつかの指標(大学ランキングなど)においてどれだけ(他に対して)卓越しているかを競いあっている現状がある。でもその競争は競争そのものが目的になりつつあって、大学人は大学間の卓越競争のために雇われる兵士のようなものと化した。でもそれは組織としての大学が生き続けていくためには仕方ない(彼自身がそういう卓越競争の国内王者だし)。

でも大学が元々生まれてきたのは、都市の自由や学問の自由という、「自由」の中からだよね、だから、インターネット時代にどんな「自由」が大学の中で実現出来るか考えないとね。

んんー?

大学人つらいな。

歴史を見れば、高等教育機関が制度的に行き詰った時にそれを打破してきたのは、制度の外で活動しようとした在野の知識人たちです。

中世の修道院が行き詰った時に都市の自由の中から生まれた大学。

中世の大学が行き詰った時に、より実践的・先端的な知の探求の場として登場したアカデミー。

藩校が行き詰った時に、洋学を取り込むために日本各地に生まれた私塾。

大学は、こうした外部の動きを取り込むことで何度もゾンビのように復活してきた制度です。

だったら今、日本の大学が行き詰まってるなら、外に出れば良いじゃないですか。みんな。違うかね? 吉見先生も東大なんかさっさと辞めちゃって吉見義塾を開いてみてはどうでしょう。