今日の2年ゼミはシモーネ・マルティーニ(受胎告知)、ミケランジェロ・ブオナローティ(アダムの創造)、デューラー(東方三博士の礼拝)、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(聖マタイの召命)、ムリーリョ(無原罪の御宿り)の5人の絵を作者を伏せた上で5つのチームに与え、それぞれの作者と題名を調べた上で、それをモチーフにした写真を撮ってこいという回でした。去年の2年ゼミに所属していたKさんも飛び入り参加。
上がってきた作品は、なるほどそこで躓いたかと納得させられるものもあれば、結構上手に課題を消化していたものもありました。
シモーネ・マルティーニの班は何故か仏壇の前でお腹をさすって目を閉じる浴衣姿の女性。これはどう見ても、お盆休みに帰省してスイカを食べ過ぎたお姉さんにしか見えません。
ミケランジェロ・ブオナローティの班は、リンゴやショウガやレタスやブドウを切り刻んでまな板の上に並べて、あの有名な構図を再現しました。これは結構好評でしたね。アイデアのぶっとび方は確かに一番だったかもしれません。
デューラーの班は聖母子の人形の周囲に動物のオモチャを三つ並べて、ウィリアムズ主教像の前に置いたという作品。これは記号論的にアウトですね。キリスト教という記号体系の中に既に存在しているもの(ウィリアムズ主教)を、キリスト教の記号体系の大定番図像「東方三博士の礼拝」の中に入れてしまったので、余計な意味が混入してしまっているということを指摘しました。講義中には言いませんでしたが、東方三博士を動物に置き換えたのもまずかったかな。これだとキリスト教から見て異教徒になるオリエントの賢者たちが人間未満の存在という含意も生まれてしまいます。聖母子も動物に置き換えてあれば良かったのですが。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの班は、美術部の部室で雀卓を囲む「クズ学生(彼ら自身の語です)」に元の絵を置き換えて、ポーズもかなり入念に再現した作品でした。残念だったのは、イエスの手前に居る人物のポーズがおかしかったこと(スマホの画面で元の絵を見ただけなので、よくわからなかったそうです)、雀卓の上の牌や点棒の配置が実際のゲームではあり得ない状態だったこと、そして画面内に光源を入れて撮っていたことです。充分にリサーチすれば、カラヴァッジオの絵画史上の功績が画面外の点光源を用いた明暗差の大きな画面構成だとわかったはずで、そこを見落としてしまったのは痛かった。
ムリーリョの班は、苔むした木に寄り添って合掌する若い女性に、画像ソフトでミジンコを合成するという作品。何でミジンコなのかというと、「無原罪の御宿り」は単性生殖なので、単性生殖するミジンコを載せたという強引なネタ。ですが、そもそもこの班は「無原罪の御宿り」というコンセプトをきちんと理解しておらず、単にマリアがヨセフとの性交によらずイエスを受胎したという話だと勘違いしていました。実際には、マリアの母アンナもまたヨアキムとの性交によらずマリアを受胎したという信仰があり、これによってマリアはアダムの全ての子孫が受け継いでいることになっている原罪を免れているという考え方です。
こうして一通り作品を見たところで、西洋絵画には、ポーズや持ち物の組み合わせによって、それぞれ「これは誰で、何をしているところ」と解釈する決まり(図像学)があるのだという話をしました。今回の課題は、聖書の内容や図像学を理解していれば、「ここだけおさえておけば、いかように変形しても絵の基本的意味は変わらない」というポイントがわかるので、「受胎告知」が「食べ過ぎた帰省」にすり替わってしまうなんて事故も発生しないのだと。
彼女ら彼らに後期にやってもらう個人作品の制作は、西洋絵画の図像学を踏まえた作品でなければならない、などということはありませんが、作品の中に重層的な意味を構築していくという考え方を学ばせるのであれば、聖書図像学のさわりに触れておくのは、例としては大変にわかりやすいでしょう。
最後に、ゴシック、ルネサンス、北方ルネサンス、バロック、後期バロックと変遷した西洋絵画の形式の歴史を簡単に解説して終了。来週で前期のゼミはおしまいです。ロココ以降の西洋絵画をモチーフにしたグループ課題です。