バーバラ・スミット『アディダスVSプーマ:もうひとつの代理戦争』(ランダムハウス講談社、2006)がやたら面白かったので、覚え書きとして中身をまとめておきます。
原題は"Pitch Invasion"です。原題からわかるように、この本の中身はアディダスとプーマの戦いではありません。アディダスがいかにして生まれ、いかにして数々のライバルと戦い、あるいは内部のゴタゴタや経営の失敗を奇跡的に乗り越えてきたかというお話。
個人的にこれは特に面白いという部分は
1:スポーツシューズメーカーが巨大産業になっていく過程で日本が果たした役割の大きさ
2:同族企業が内紛を起こした時の暗黒の黒さ
3:アディダスの2代目ホルストの正負の遺産の巨大さ
では順に見ていきましょうか。
まず1です。ナイキがオニツカタイガー(現在のアシックス)のアメリカへの輸入代理店から始まったことは有名ですが、ナイキにしろアディダスにしろ、現在のような巨大企業になる過程で必要だったのは、自分たちの商品が輝く檜舞台でした。具体的に言えばサッカーワールドカップとオリンピックです。このどちらも現在のような巨大商業イベントになる過程で深く関わっていたのが、アディダスの2代目、ホルスト・ダスラーでした。
ホルストはアディダスを世界的ブランドに飛躍させた強烈な経営者でしたが、1970年代に入るとFIFAやIOCの資金不足に乗じて、これらの組織にスポンサーを紹介するビジネスに進出します。手始めにこの分野の先駆者だったウェスト・ナリー社と個人的に手を組み、1975年にコカ・コーラをFIFAのスポンサーに引っ張り込みます。これが突破口となって1978年のアルゼンチン大会ではスポンサー仲介ビジネスでもまずまずの成果を収めます。この時にホルストが使ったのは、ウェスト・ナリーの創業者パトリック・ナリーと共同で設立したSMPIという会社でした。ここがFIFAから包括で権利を買って、スポンサー企業に切り売りしていたわけです。
このスポーツ広告ビジネスの第2章で出てくるのが日本なんです。アルゼンチン大会の後でウェスト・ナリーは日本に子会社を設立し、ジャック坂崎という日系アメリカ人に日本での営業を任せました。この坂崎はまず日本でトヨタカップを立ち上げます。1980年のことです。
次に坂崎は博報堂と組んでキヤノンやセイコー、日本ビクター、富士フィルムを1982年のスペイン大会のスポンサーとして引っ張っていった。この時点でFIFAの広告出稿枠の権利はSMPIが握っています。そしてSMPIの株の51%はホルストが持っています。ここは重要です。
この後がヒドいんですね。ドイヒーつうんですか。博報堂と坂崎の成功を見た電通が、博報堂から1982年のスペイン大会のビジネスを強奪しようと介入します。具体的には高橋治之という人物を担当者としてホルストにトップセールスを掛け、土壇場の1982年3月にウェスト・ナリーをFIFAのスポンサー仲介から外してしまいます。権利関係は
FIFA(アベランジェ会長はホルストとツーカー)→SMPI(FIFAの一次請け)→ウェスト・ナリー→博報堂→日本企業
これが電通の強奪によって
FIFA→International Sports and Leisure(ISL: ホルストと電通の合弁会社)→世界各国の企業
こうなった。鬼十則マジ怖い((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
この後、ISLが1980年代を通してFIFAワールドカップとオリンピックのスポンサー周りを全部仕切ります。粗利率92%とかそりゃあ人の生命より大事って思っちゃうかもね。オリンピック商業化の歴史的転換点は1984年のロサンゼルス大会だったとされてますが、その焚付を準備したのはアディダスの2代目と組んだ博報堂と電通だったんじゃないか! 知らなかったぞ。
こちらの記事も同じような話が書かれています。多分、この本読んで追加取材して書いたんじゃないかな。
ちなみにISLはホルスト死後に株を引き継いだ親族(元マッキンゼーのコンサル)が拡大路線の経営で大失敗し、2001年に破産してしまいました。
次は2ですね。同族経営の闇。
アディダスは第2次大戦前にルドルフとアドルフのダスラー兄弟が始めた靴工房「ダスラー兄弟社」から始まっています。靴職人アドルフが考案したスパイクシューズが、勃興しつつあったプロサッカーやFIFAワールドカップやオリンピックの場で重宝されて会社は順調に拡大。しかし戦後は営業担当のルドルフとアドルフの二頭経営が破綻し、ルドルフはダスラー兄弟社の営業部隊を連れて独立しました。これがプーマです。
しかし二人の勝負は一貫してアドルフ優勢でした。アドルフの息子のホルストが怪物的な豪腕経営者として、アディダスを爆成長させたからです(ホルストは働きすぎで早死してしまいますが)。
ですが、ホルストはアディダス本社でさえもやり方が古臭いと思っていて、フランスに作った子会社のアディダス・フランスを半独立の自分の拠点として、ここを起点にスポーツアパレル全般に進出していきました。靴以外のもの(ジャージとかバッグとか水着の類)もどんどん作ったし、アリーナやルコックスポルティーフなどのブランドも買収して、複数のブランドを束ねる複合企業の走りにもなった(今はLVMHやリシュモンなど、このやり方が当たり前になってますね)。スポーツ権利ビジネスも作った。
これにより、アディダスVSプーマだけでなく、アディダス内にもドイツ本社VSフランス支社の家族間対立が発生します。初代アドルフはそんな超巨大複合企業の総帥になるつもりなんか無かったので、お前なにやっとんねとなる。ホルストの姉妹たちも、正直そこまでのタマじゃなかったのに、家族経営ですからこの超巨大複合企業の経営をやることになり、わけがわからなくなっていきます。
ちなみにプーマ側もルドルフと息子たち(アーミン、ゲルト)は基本的にゴタゴタしていました。
巨大企業の経営者なんて、なりたい奴がなるもんですよねー。くわばらくわばら。
1980年代末、アディダスとプーマはほぼ同時にダスラー家の家族経営から、プロ経営者による経営に切り替わります。直接的な理由はナイキやリーボックの台頭による市場競争の激化によって赤字体質になったことですが、更にそれを詳しく見ると
A:製造コストの高いヨーロッパの昔からの工場での生産から、アジアでの生産に切り替えられなかったこと
B:1950-70年代の急拡大期に適当に交わした世界各国のディーラーとの契約が複雑怪奇で、適切なグローバル戦略をスピーディーに展開出来なかったこと
C:財務管理がずさんで、得体の知れない支出や簿外損失が山のようにあったこと
D:マスメディアを効果的に使ったプロモーション戦略に乗り遅れたこと
この辺りが、ナイキにやられた敗因かなと思いますね。これをまとめれば
E:創業家の社長の個人的才覚で全てを回していたこと
となります。
結局はプーマもアディダスもプロ経営者によって再生されて今のようなトップブランドに返り咲いているわけですが、その移行期にはBとCが足かせとなり、アディダスはこの辺を整理してすっきり出直すまで4年かかっています(その4年間でCEOが4人変わってます)。特に揉めたのが日本で長年アディダスを扱ってきたデサントとの契約解消で、裁定の決着まで数年かかっています。ここでも日本だ!
そして最後。3。
ホルスト・ダスラーの正負の遺産。
最終的には前述のように、家族経営の限界に到達してダスラー家はアディダスを失ったわけですが、それでも買い手が付いてブランド再生出来たのは、やはり彼が1970年代までに(汚い手もいっぱい使いつつ)世界各国のトップアスリートたちにアディダスを使わせることで築いたブランド価値があったからです。
また、アディダスとプーマ、後にはナイキやリーボック、コンバース、アシックスなどの参戦によって、トップアスリートが取るスポンサーフィーは高騰を続けましたし、スポーツ広告権利ビジネス市場そのものもホルストが作ったようなもんなんですが、結果としてその巨大市場の恩恵を受けているアスリートも多いんですね。我々も世界各地のスポーツイベントの中継や記事を大いに楽しんでいる。
このように考えると、ホルスト・ダスラーは現代スポーツビジネスの基礎を築いた人物として、数々の悪事を差し引いても、まあまあ正の遺産が多い人かなあと。
最後に一言。この本に出てくる経営者の大半が50-60くらいで体を壊してます。唯一長生きしたのは生涯職人道を貫いたアディダス初代のアドルフくらい。見習いたいものです。