愛の力は設計の良し悪しを超えられないが、良い設計も愛が無ければ絵に描いた餅であることを中学2年生はまだ知らない。

発達障害者であることがアイデンティティの核になっているらしい論客の人たちが、発達障害者支援に愛は要らないと主張して、それが何かの拍子に私のタイムラインに流れて来るということが2ヶ月に1度ほどあります。

なんたる既視感。

20年前にろう者であることをアイデンティティの中核に据えたノイジーな論客たちがやっていた祭りと瓜ふた~つ! です。

愛よりも仕組みを寄越せ。仕組みさえ寄越せば愛なんか要らない。

よーやるわ。そういうの中二病って言うんだよな最近は。

世の中にある、人が作ったもの、それが仕組みであれ機械であれ、設計はとても大事です。悪い設計のものを使い続けるくらいなら、全部壊して新しいもの手に入れた方が良いということはちょくちょくある。それくらい設計は大事。

でも良い設計のものを実際に形にするのも、それをメンテして保守管理するのも人だからね。人の働きの良し悪しはさり気なくでかいよ。最高のものは良い設計と良い人が揃わないと、世の中に存在出来ないのだよ。そこで必要なのは


ですよ。間違いなく。仕組みでもモノでも仕事として作って仕事として保守管理してみたことがあったら多分これはわかるはず。カバンなんかほんの1ミリ針の刺さった位置が違うだけでも、良い物とイマイチな物は分かれますんでね。そこで正しい位置に針を落とせるか。失敗した時にロールバックする手間を飲み込めるか。

そんなの殆ど、愛の有無で決まります。隣人愛の有無で。

愛の有無は設計の良し悪しを超えられないけれど、良い設計が想定通りに動いて良い結果を出すには、愛が必要なんですよ。バカだなあ。愛が無くても仕組みが良ければOKとかいうのは中3以上の人は恥ずかしいから口走っちゃダメなのに。

私は愛の大事さを知る発達障害者になったので、そこはラッキーだったな。