細部に宿っている神はかなり下っ端である

寄藤文平『デザインの仕事』(講談社、2017)に面白い指摘があった。 寄藤は「細部をすべて詰めていくことこそがデザインである、とその労力の中にデザイナーとしてのアイデンティティがあるかのような風潮」に疑問を投げかけている。
 

「詰めることが目的化して「本当にいい装丁になっているか」みたいなところの設計は出来ていないのに、細部ばかりを磨いて洗練させる、ということも起きてしまうんです」(P169)

 
書籍デザインに限らず、全体のデザインの考え方がそもそも眠いのに、細かいディテールの仕上げのクオリティが無駄に高いというのは、この国ではよくある光景だ。

同質性が高い中間集団の中での差別化、というよりは劣後しないための保険なのだと思うけれども。
 
小説でも「何度見直しても修正したいところが見つかるので推敲が終わらない」というようなことを地獄のミサワ顔でおっしゃる方が稀におられるのだが、全体の設計がきちんとしていて個々の部位の意味を書き手が理解していれば、そこまで時間はかからないのではないかと思っている。趣味ならば好きなように時間を使ったら良い。しかしプロ作家志望を公言しつつ細部の手直しに投下した機会コスト自慢をするような人は、かなり痛い。それくらいならもっとROIの高い行動はいくらでもある。

昔、ギター・マガジンに、フローティング式ブリッジのギターの調弦は永遠に終わらないというネタのギャグ漫画が出ていたが、こういう細部の手直しに関するある限度を越えての機会コスト投下は、作り手の不安が生んだ心の闇と戯れる不毛な行為かもしれない、というメタ認知は出来た方が良かろう。
 
こういう行動は不毛、少なくともROIは果てしなく悪化してゆくのだが、やる側は「やっている感」が得られる。麻薬や酒のようなものだ。