退廃商品は売りたくない

ある商品を手間暇かけて作るという行為には、二つの方向性があると思います。

一つはクオリティを追い込むため。

もう一つは「味」を作るため。

この時代、大半の作業は業務用の高性能な機械にやらせた方が、わざわざ手でやるよりずっと精度の良い仕上がりになります。手縫いより業務用ミシンね。でも縫い始めと縫い終わりの糸の処理はやはり手でやるしかない。その手間は、コストとそれによる機能向上を見比べると、実はあまりお得じゃないけれど、でもそれをしなければアップしない品質があるならば、敢えてやるという選択は市場においては合理的となる場合があります。

ハイエンドの商品はそうですよね。その手間の価値に沢山のお金を払ってくれるお客様が付いていれば、是非やるべき。

一方で、分業したり外注したり機械使ったりした方が絶対に高機能高性能なものが出来るのに、敢えてそれをやらずに全部一人で作って売るという商品もあります。そういうものは品質が低い上に割高となります。

ところが、そういう、道具の製造方法として見れば正しくないやり方で作られたものに対して「味」という形で評価を与えて、高いお金を払う人も世の中には一定数おり、そういう市場も成立しています。

この「味」は浪費です。
普通はやらない浪費だからこそ、それを買う人と買わない人との間に違いが生まれる。

本来必要な性能を越えた高性能な仕様にお金を払うとか、その道具の性能には関係無い見た目の整備にお金を払うのも、浪費という意味では同じです。

とはいえ、高性能の追求は技術の進歩を生み出しますし、見た目の追求は美の世界を深め、あるいは押し広げます。

では「味」の追求には、人類全体のスキルアップや美の深化拡張に何か寄与するものがあるのでしょうか? すぐには思いつけません。そのように考えてみると、「味」の追求は最も退廃的な奢侈なんじゃないかと思えてきます。

私は退廃が嫌いなので、商品の製造は可能な限り高性能な機材と高い技能によって行いたいと考えています(だから、自分で作ったものは販売しません)。