日本のアニメの兵器のスタイリングの土着性はクールジャパンとしての限界を形成する

 「メカデザイナーズサミット」の内容の方で感じたこともまとめておこうと思います。

 キーワードは「vernacular」です。これは「土地ことば」とか「土着の建築様式」という意味ですが、日本のアニメの兵器のスタイリングを考える際にも有用な概念だと昨日思ったのです。

 さて。私が「メカデザイナーズサミット」を見て異様に感じたのは、6人の登壇者全員が中高年の日本人男性であったことでした。一番若い二人が1973年生まれ。しかも全員が、日本のセルアニメの歴史に深く通じている(というか、その世界で育ち、その世界で仕事をしている)。すなわち、同質性が極めて高い社会集団なのですね。客席に居た方々も属性は殆ど同じ。

 ビジネス一般として考えれば、これはダメフラグです明らかに。多様性というものが全く無い。せめて一人くらい女性のアニメメカデザイナーを呼べと普通なら考えるでしょう。

 でも、この時私が考えたのは、違うことでした。

 日本のセルアニメは農業に近いんじゃないか? イタリアやギリシアやスペインの農村で地元の人達が土地言葉で会話しながら、その土地で長年かかって生み出されてきたやり方で、その土地に合った品種を作っているオリーブ栽培みたいなもんじゃないのか?

 とするならば、サンライズやプロダクションIGがアップルやアウディのデザイン部門のように多国籍化したら、これらの会社の持ち味が失われてしまうのではないか?

 なにしろ、ステージのホリゾント幕に投影される登壇者の皆様の作品というのが、どれもこれもあまりにもゴテゴテの装飾過剰で、まさに田舎ヤンキーのフルカスタムミニバンとそっくりだったのですよ。とにかく隙間があれば何か線を入れてしまう。あるいは、そうですね、浄土真宗の仏壇。権現造りの社殿の装飾。誰でも良いから左甚五郎を呼べみたいな。

 言っておきますが、この部分、見下して書いてませんよ。

 日本に限らず世界のどこだって、何か凄いもの作ろうとしたら取り敢えず装飾ゴテゴテに走りますからね。バロック様式の聖堂なんか日光東照宮よりクドいです。

 そして、そうした過剰性、装飾部分にこそ、その土地の訛りというものが強く出るんだと思います。vernacularね。逆にシンプルなもの、装飾を削ぎ落としてデザイナーの原イメージをクリアに形にしたものは文化圏の境界を越える力が強いように思います。

 日本文化で言えば能楽、数寄屋造り。外国のものではジョブス復帰から死までの間のアップル製品(iMac、iPod、iPhone、iPadなど)。フェラーリのロードカー。

 そうそう、フェラーリのロードカーは面白いですよね。あれほどイタリア的な商品は無いわけですが、そのデザインを日本人の奥山清行さんが一時期仕切っていた。何故そんなことが出来たのかと私は「メカデザイナーズサミット」の客席で考えたんですよ。それはおそらく、フェラーリのロードカーとはこういう形、こういう質感なんだというイデア(理想)を世界中の誰もが共有しているからなんです。ここを目指して寄せていけば良いというものが皆わかっているから、イタリア人が描かなくてもフェラーリのロードカーはデザイン出来る。

 逆にモビルスーツは、定義というものが殆ど無い。両手両足が付いていてお腹んとこにコクピットがあったらモビルスーツだから、皆さんそこだけ踏まえて、出来るだけ新しいもの、誰も見たことが無いもの、意表を突くものを描こうとする。つまり原型から離れて行く方向で描く。そして、離れるプロセスが同時に装飾化のプロセスとなり、結果としてハイエースのオーナーズミーティングみたいに個々の美意識の微細な差異を可能な限り強調するような装飾合戦になる。

 で、ですよ。

 そのvernacularな装飾合戦の伝統が日本のセルアニメの兵器のスタイリングの歴史を創って来たのだから、vernacularを中和してしまったら、この世界の魅力は死ぬんだろうなあと思ったのです。

 とするならば。

 vernacularに根ざしたものである以上、ガンダムを始めとする日本のセルアニメの兵器の魅力は、iPhoneやMacBookほどはグローバルには受け入れられないんじゃないか。つまり、クールジャパンなるビジネスプランの商品としては、結構低いとこに限界がある分野なんじゃないのかなあ、と思うのでした。日本のAVの方がグローバル商品としては可能性があるかもしれない。