社会学徒のB案

 十数年ぶりに修士課程の友人と話をする機会がありました。彼は修業年限ギリギリで何とか修論を出し、現在はフリーターです(参考までに、当時の友人や後輩たちのその後の進路はというと、大学の専任教員1名、小中高の教員多数、会社員1名、フリーター2名、消息不明2名、プロフェッショナルミュージシャン1名)。

2019/7/3追記 専任教員凄い増えてました。木下由香さん(仁愛女子)、エドガー・ポープさん(愛知県立大)、直江学美さん(金沢星陵大)などなど。

話題は社会学の存在価値について。私は現在日本の大学でやっているような教え方、研究のやり方ではいずれ社会学は2流以下の学問扱いされるようになると主張しました。何故ならば、社会学者は批判や問題提起や分析は大好きでも、その先、その社会問題をどうするのか、自分はどの立場に立ってどんなソリューションを提案し、その代償としてどんな批判を甘受するつもりなのかを語る人は稀だからです(左翼系の人で原理主義的かつ極端な政策目標を連呼する人はたまにおりますが、そこに到る合意形成プロセスの実現可能性や、財源、政策実施の為に必要な人材の育成、制度設計などなど一切考えていないような代物ばっかし)。だから、社会学は学生に失望を与えている。このままでは相手にされなくなるというのが私の考えです。

 

 彼はそんな私を、社会学の死を喜んでいるとなじりました。そこで私は、自分なりに社会学が学生や社会にその価値を認めてもらえるよう頑張っているという話をしました。だから、おまえも社会学の価値を知らしめるような何かをしてみせろと促すと、彼は、それはスーパーのおじさんでしかない自分に対するイヤミなのかと怒り始めました。私は彼の言葉をとても残念に思いました。

 

 何故ならば、私には彼がスーパーの店員という仕事を軽蔑しながら生きてきたように思えたからです。私はスーパーの店員さんには毎日感謝しながら買い物をしていますし、あの大震災の時、日々スーパーにモノが揃うことの有り難さを改めて実感しました。そんな大切な仕事なのだから、全身全霊でそれに打ち込めば、彼はスーパーについて深く語れる人間になっていたはず。自分の身の上を呪いながら、インターネットの片隅で社会学のフォーマットを使った「議論のための議論」を果てしなく続けるだけの男ではなく、スーパーの従業員にしか語れない社会学を、世に問える人間に。そうであれば、私はアタマを下げてでも彼に自分の学生たちへのレクチャーをお願いしたはずです。実際、私が深く尊敬する実務家の中には、高校までで社会人になった方々もいらっしゃいますし、そうした方々にも私はレクチャーをお願いして来ました。

 

 彼はこう言いました。社会学はツールだ。それを与えてもらったら、あとは学生たちがそれをどう使うか考えるべきだ。しかし、そう主張する当の本人が、修士課程まで出てその社会学を生かすことなく不惑を迎えているわけです。何をか言わんや。社会学徒の行動力の無さを身をもって証明してしまっている。

 

Bを提示せずに、A案が良くないという批判は聞き流していい。」(為末大)

バッグデザインだって社会学の実践だ!