南山問題を勉強しはじめた3年ほど前からずっと見落としていた、そしてそれこそがこの揉め事の核心の一つであろう事実にやっと昨晩、思い至りました。南山問題市民連絡会もちーむポンポコも南山の自然を守り育てる会もみなみちゃんの会も、何であそこまで南山の木を切ることに激烈なアレルギー反応を示し、偏執狂的に現況保全に拘り続けているのか。
何のことは無い、2000年代アタマ頃の南山、アズマネザサとシダが林床を覆い尽くし、資源としての利用価値がゼロを突き抜けてマイナスの査定になるような雑木類がこんがらがった感じで生えていたあの南山。いかにもヤバい感じでエグレたまま放置された崖地。あの風景、あの空間が彼らの原点だからです。彼らが愛する子供たちと歩いたのは、そういう場所だった。彼らにとっての「里山」が、辞書的な定義とも稲城の地付き住民層の実感とも乖離し続けてきたのも無理はない。彼らにとっての「里山」は大人の背より高く茂ったアズマネザサの茂みであり、直径30センチを越えるような煮ても焼いても食えない巨大クヌギやコナラであり、本来なら南山には生育を許されなかったはずのヤマザクラ。畑の上にまで覆い被さるように生い茂った常緑高木。それなんですよ。
だってね、市内にはきちんと美しく手入れされた、そして誰が入っても良い落葉広葉樹林がちゃんとある(城山公園と中央公園)のに、そこを歩きに来る人は本気でまばらですもん。ま、2万5千筆だかの署名が集まった南山にしたところで、リピーターとして通っている(いた)のは署名した人の0.1%か0.2%程度だと思いますがね。
廃墟的里山に話を戻しましょう。
私も初めて南山に足を踏み入れた時には驚きました。それは森の広さについてもそうなんですが、あのどことなく荒んだ感じも強く印象に残ったんです。実際、粗大ゴミも空き缶も廃車も好き放題に捨てられていたしね。今から思えば、あの頃の南山は廃墟だったんです。人間が管理を放棄して撤収していった空間。その内部にところどころ、文明の残滓のように山畑が営まれているあの独特の空気感。19世紀ロマン主義の画家たちが好んで描いたモチーフでもありますし、同じく19世紀アメリカの作家、ワシントン・アーヴィングによる大著『アルハンブラ物語』に登場するのも、廃墟となったアルハンブラ宮殿に棲み付いていた人々でした。
そう、まさにロベールやアーヴィングが描いたあの感じ、廃墟の中にある種の牧歌的風景が入り込んできているあの世界観。あれが南山にはあった。里山とか言い出したら小野路やら橋本やら八王子やらにもっとでかいのはいっくらでもありますけどもね、あのロマン主義的廃墟的里山というのは、私は他に知らないです。崖地の上から見下ろした東長沼の街並みこそ、アルバイシンのベラの塔から眺めるグラナダ旧市街でしょう。
そういう意味では南山は確かに唯一無二の空間だった。あの空気感は城山公園では絶対に味わえない。奥多摩や奥武蔵の山でも味わえない。裏磐梯でも無理だ。崖地や廃車と市街地の鮮やかなコントラストは南山にしかなかった。反対運動や現況植生保全運動をやっている人たちが取り憑かれているのがあの空気感だとするならば、そりゃあ再生緑地じゃ絶対イヤだと思いますよ。17%にも達する公共緑地がどれだけ工夫を凝らして整備されたとしても、「俺たちが欲しかったのはこれじゃなかった」ってなると思う。彼らが求めているのは稲城本来の里山じゃなくて、廃墟的里山なんですもん。
さてここで私からの提案をば。
5ヘクタールの近隣公園ね、あれ、「廃墟的里山」コンセプトで造りましょう。林床には敢えてアズマネザサとシダを生やしておくの。クヌギもコナラも剪定なんてしない。間伐もしない。それで藪みたいになった森の中にシングルトラックの遊歩道の迷路を仕込む。
そんなの邪道だって? そんな公園聞いたこともねえぞだって?
だから良いんだよ。キレイな里山なんて昨今どこにでもあるよ。祖師谷公園、稲城中央公園、城山公園、長池公園。どこだってそうよ。教科書的にキレイな里山を造ろうとして頑張ってるじゃない。まあそれはそれで良いけれど、あの廃墟的里山と、そこに撞着した人々による激烈な開発反対運動は、これからも忘れちゃいけない稲城の歴史なんだから。南山の歴史を語る生きたモニュメントとしての、廃墟的里山公園。
本気でお勧め。絶対面白いよこれ。絶対ウケる。