緑地愛とフェティシズム

 夏合宿の間、何人もの学生と仕事についての話をしました。

 彼らは皆、平均的なそれを大きく越える優秀な知性を持っていますし、立教大学の一般的な美風である誠実さも兼ね備えています。素材としてはとても良い。でも、彼らは就職への大きな不安を抱えていました。一言で言えば、「何を目指していけば良いのかわからない」。二言目を付け加えるならば「自分にどんな価値があるのかわからない」。

 わからないことだらけ。

 でも、やってみたい仕事が無いわけではない。

 私はこんな話をしました。

「○○という職種に就いて、××という仕事をしてみたいんです」
「誰のために?」
「え?」
「あなたがその職種に就いて、その仕事をあなたがすることで、誰がどう幸せになるの?」
「え?」
「その仕事をしてみたいということはわかった。でもそれは誰のためなのかがわからない。自分のため? 自分以外の誰かのため?」
「・・・・わからないです。」
「そう、あなた自身がまだわかっていない。でも、最高のクオリティの仕事は、多分、自分のためには出来ないものだと思う。誰かの幸福を実現するためでなければ、人間は最高の品質の仕事は出来ない(よほどのナルシストなら別だけど)。あなたがその仕事をする。それは自分が個人的に楽しむため? それだったらあなたはその職種の採用試験をクリア出来ないんじゃないかな。採用希望者の全員がそういう意識できたとしたら、採用する側はコネとかルックスで選ぶでしょ。」
「そうですね。」
「あなたがその職種、その仕事を引き受けることで、誰がどう幸せになるのか。その誰かの幸せのためにあなたはこれまでどんな努力を重ねてきたのか。そこをちゃんと説明出来ないとね。例えばデュークさんの息子のケニーは、自分の将来やりたい仕事が誰のためになるのかまで考えて、そこに向かって凄い努力を重ねてると思うよ。しかもそこには、まだ会ったこともない誰かに向けられた愛がある。」

 まだ19や20の若者たちは、自分が何をしたいかを見極めるのに精一杯です。自分の欲望とどう折り合いをつけるのか。それだけで手一杯。あと1年で死ぬとしたら何をしたい? そんな質問を投げかければ、口々に返ってくるのは、まだ果たされていない個人的な欲望を満たしたいという回答ばかりなんです。そんな状態の若者たちに、生涯を左右するであろう新卒就職の選択を強要するというのは、いかにも酷だと思う。でも当面それが避けられないならば、せめて理屈だけでも、「仕事は自分以外の誰かに向けられた愛を根源的な駆動力にして選ぶ」という考え方を知っておいて欲しいのです。

 さて、話は飛んで、例の「里山コモンズ」。

 私は先日あらためて思い知ったのですが、彼らのアタマの中には緑地への愛しか入っていない。緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地緑地。それだけ。

 南山の街作りを通して幸せにしたいのは実は自分たち自身。緑地萌えな自分たち。これはいわゆるひとつのフェティシズムです。物神化。モノをモノとして見るのではなく、モノを神様にしちゃって崇めておられる。端から見ていると倒錯にしか思えない。

 それを糊塗する屁理屈が、いっぱい緑地があればそこに住む人は幸せに決まってるという粗雑な断定ですね。そりゃあ南山東部の緑地面積は、区画整理として見れば桁外れに広いですけれども、新住法で作った多摩ニュータウンの各住区に較べれば、辛うじて一番下の若葉台に迫る程度なんです。じゃあ南山東部より断然緑地面積が大きい向陽台やら永山やら聖ヶ丘やらの住民が、その広大な緑地に比例した幸福を本当に享受しているのかとかの問いを思いつかないんですね。緑地と住民の間にどんな関係が築かれているかが本当は大事なのにね。

 とにかく緑地を広くしたい。その結論が先にあって、その結論を破綻させないための屁理屈がわんさか湧いてくる。結局、そこにあるのは緑地への愛だけなんだと私は結論しました。だから仕事にならん。その愛はヒトには金輪際向けられていないんだから。

 もう勝手にせい。