甲斐さま
お世話になっております。「南山・何でも検証ワークショップ」世話人代表の加藤です。このたびは10月開催のワークショップのレクチャーをご快諾いただき、心より感謝しております。
さて、御恵送いただきました『都市問題』誌掲載論文「豊かな高齢社会を構築するためのライフスタイル再考」を拝読いたしました。「暮らしの場における関係性」を「共生」と「孤立」に、「個人の身体能力」を「依存」と「自立」に分けて「依存型共生」「自立型共生」「依存型孤立」「自立型孤立」の4種の類型を提示し、現代の日本社会のライフスタイルのありようと住宅デザインの関係性の再構築を提案する論旨は非常に明快です。今年度後期の社会学部現代文化学科1年生対象の演習では、甲斐さまの御著書『自分のためのエコロジー』をテキストの一つとして採用する予定でしたが、こちらの論文も併せて学生たちに読ませようと思っております。
ちなみに私は障害学という研究分野にも首を突っ込んでおりますが、これはわかりやすく言えば、「障害は個人の身体能力の欠損ではなく、社会のデザインの不備によって生起する」という考え方です。私の友人の倉本智明さんの考えたたとえ話をご紹介します。
もしも空中飛翔能力を持つ人間が大多数を占める社会があったとしたら、その社会に階段やエレベーターは稀であろう。となると、我々の社会では健常者とされる体の持ち主であっても、空中飛翔能力が当たり前の社会では「身体障害者」になってしまう。ならば、肢体不自由によって階段の昇降は出来ないけれどもエレベーターがあれば社会参画に不自由しない人間の「障害の経験」は、然るべき場所にエレベーターを配置しない社会のデザインによって引き起こされていると考えても良いのではないか。
これが障害学の基本となる発想です。
その障害学ですが、「障害者」と「健常者」を別のカテゴリーに分類して把握しようとする立場と、人間はそのライフステージのどこかでは大抵「障害者」であるから、「障害者」と「健常者」は連続した一つのカテゴリーであるとする立場とがあります。私はどちらかと言えば、後者の立場に共感します。例えば私は昨年秋に左手を粉砕骨折して大層不自由しましたが、あの時期の私はどう考えても「障害者」でした。もちろん、前者には前者の理論があり、障害学をどちらかの立場に統合する必要は全く無いのですが、甲斐さまの考えておられるこれからの住居デザインの基礎となるべきは、後者の考え方なのではないかと思います。
もう一つ、障害学の話で思い出しました。世の中には障害者運動というものがあります。障害者運動もまた多種多様なのですが、中には「我々は多数派によって不当に権利を抑圧された被害者集団である。よって社会は我々に然るべき権利を保障しなければならないし、我々にはそれを当然要求する権利がある。すなわち我々の目指すところは、多数派に我々の当然の権利を保障させることである。」という、「多数派によって虐げられた被害者の集団であるわたしたち」という物語を採用する運動もあります。
確かにその主張はある面から見れば妥当なものであり、多数派である健常者が少数派である障害者の権利の保障に積極的に取り組まなければならないことに疑いはありません。しかしながら私が違和感を覚えるのは、こうした物語を採用した時、その運動は「多数派からの権利の奪還」のみを追求し、自らが(多数派である彼らと少数派である我々を包含する)コミュニティに対しいかなる貢献をしうるのかという発想を欠落させているという点です。私の理解では、コミュニティとは単にホモ・サピエンスの個体が複数集まっている状態ではなく、それらの個体がコミュニティの形成と存続の意志を持って集まっている状態を指します。甲斐さんの言う、自分の為にコミュニティを利用するという概念もまた、コミュニティを維持しなければ自分が損をするわけですから、この定義に外れるわけではありません。
ところが前に挙げたようなある種の排他的な障害者運動においては、コミュニティは彼らが何の寄与をしなくても当然のようにそこに存在しているものとして、また彼らはそこから給付を受けるだけの存在として位置づけられるのです。これは共生というよりは寄生と呼ぶべきでしょう。多数派は少数派に給付するだけで、少数派からの反対給付の回路が開かれていないのです。こうした関係は、資源の利用効率の面でもシステムの持続性の面でも問題を抱えているというのが私の主張ですが、悲しいかな障害学の世界では全く賛同者を得られておりません。
ここで話をコモンの問題に接続します。甲斐さんは「欅ハウス」の事例から、住宅デザインにおけるコモンの効果的な利用が共生の関係を呼び起こすと指摘しておられますが、このコモンの領域において成立する経済の精緻な分析が今後、必要になってくると私は考えます。甲斐さんはコモン領域に貨幣経済を持ち込んだことが、従来の住宅デザインの敗因だったと書いておられますし、私もそれには同意いたします。では、貨幣経済の対概念として一般的に想起される贈与経済がコモンの経済ということになるのでしょうか?
先日お送りいたしました拙訳『星の航海術をもとめて』は、ミクロネシア連邦の離島に細々と生き残っていた石器時代の航法技術がハワイ社会に贈与されるプロセスを取り上げていました。あの本には書かれていませんでしたが、その後、ハワイ社会にもたらされたこの航法技術はポリネシア各地や日本に再贈与され、現在ではある種の知識のコモンとでも言えるような領域が太平洋の島々の航海者たちの間で共有されています。贈与によってコモンが生まれる。そして贈与物は繰り返し再贈与され続けることによって増殖し、贈与の連環に加わる人々全てを豊かにする。しかし、誰かが贈与の環を切断すると、贈与の祝福とでも呼べるようなこうした贈与物の増殖現象は消滅します。同時にコモンも消え去ります。
おそらく、甲斐さんや宇野健一さんがこれまでに手がけて成功に導いたコーポラティブ住宅の諸事例においては、ハードウェアとしてのコモンが居住者たちの間の贈与の連環現象を促すようにデザインされていたのだと思います。
私たち稲城市民がこれから考えていかなければならないのは、南山に生まれようとしている「里山コモンズ」の中にどのような経済を発生させるかという難問です。ご存じのように「里山コモンズ」として現在計画されている2種類の「コモンズ」、すなわち「かたまり型コモンズ」「分散型コモンズ」のいずれもが、大金を投じて地権者から購入された土地の上に展開されます。貨幣経済の領域の中にコモンズの種が播かれるのです。そうして生まれたコモンをいかに貨幣経済から分離するか、いかなる贈与経済をデザインするか。
「里山コモンズ」の経済は、かつての里山のように、単なる天然資源の分配システムというわけにはいきません。かつての里山は貨幣を生み出しうる場でしたが、これからの里山が貨幣を生み出すことはありません。貨幣を使って消費行動を行う場であると同時に、何らかの贈与経済が動作する場でもある。そういう仕掛けをわたしたちは考え出さなければならないのです。9月開催のワークショップでは、そういった問題についても議論します。デザインの骨格が見えるくらいまでの作業はやる予定です。その議論の成果を甲斐さんのレクチャーの内容に繋げることで、10月のワークショップでは南山の「里山コモンズ」の姿が鮮やかに浮かび上がる。そんな展開を期待しています。
思いの外長くなりました。それでは、10月にお会い出来るのを楽しみにしております。
加藤晃生