新聞読んでますか?

 一昔前なら明らかに「恥」だったと思うのですが、最近はどうなんでしょうか。

 実は、私が立教大で担当している学生15人の中で、新聞を読んでいる者は1人も居ないのです。もしかしたら居るのかもしれませんが、「新聞読んでる人、居る?」と聞いてみた時に、手を挙げた学生は居なかった。

 最初はショックでした。新聞くらい普通読むだろうと。でもよく考えたら、私自身、1年前に新聞の定期購読を中止して、生まれて初めてという「毎朝新聞が家に届かない」生活に移行していたのでした。

 何故か。私の場合、理由ははっきりしています。まずあの下品な広告欄(特に週刊誌と右翼オピニオン誌の)をこれ以上見たくなかったこと。必要なニュースはインターネットで入手出来ること。そして・・・・新聞記者の書くコラムや論説文の大半があまりにも低レベルで、そういったものにお金を出す意味が見いだせなくなったこと。

 専業の情報産業従事者が世の中に必要なのは事実です。仕事として取材が出来る人間でなければ入手出来ない情報は確かにあります。例えば私はおそらく日本で2007年にホクレア関連の報道をした情報産業従事者全員を束にして5をかけたよりも沢山の量の関連資料を読み込んでいると思いますが、あいにく家庭を放り出してハワイやミクロネシアや沖縄や九州に行くということは出来なかった。そこは余暇を利用して情報収集している人間と、仕事として情報収集をしている人間の絶対的な差がある。
 
 ですが、そうして得られた情報の分析・解釈となると、話は別です。少なくとも日本のマスコミのそれは、哀しいほどに深みが無い。この場合の深みというのは、英語で言うlogical depthのことです。日本語では論理深度と訳します。IBMに所属する情報理論の研究者、チャールズ・ベネットが考案した理論なのですが、簡単に言えば「ある情報が生成される為に廃棄された情報の量」のことです。

 例えばここに立教大学の全学生の各種個人情報が入力されたデータベースがあるとします。これは膨大な情報量になるので、一人の人間がこのデータベースの全体を一度に把握することは出来ません。つまり生身の人間には扱いきれない情報だということです。では、このデータベースから「出身地」の情報のみを抽出してみましょう。この作業の前後で、膨大な量の情報が廃棄されたことになります。「出身地」以外の情報は全て捨てられたわけですから。ですが、まだまだ情報量は巨大ですから、生身の人間がその全体を把握することは出来ません。では、更にこうして加工された情報を、今度は出身都道府県別の学生数を示す棒グラフにしてみましょう。この作業において、今度は都道府県未満の住所と学生の名前、学生番号などが廃棄されました。結果として、元のデータベースの膨大な情報は、生身の人間が一度に扱える程度の情報量に圧縮されています。

 この時、最後に出来た棒グラフの論理深度は、元のデータベースの論理深度よりも、後者を加工して前者にする過程で廃棄した情報の分だけ深いと考えます。生身の人間が扱える情報量は限られていますから、日本全国の全情報などというものは、仮に存在していたとしても使いようが無いですし、私たちが利用出来るのは、何らかの形で加工され、論理深度が深められた情報だけなのです。

 ただし、こうした情報の加工、言い換えれば論理深度を深めていくプロセスにおいて、どの情報を残し、どの情報を廃棄するのかは、情報を加工する者の判断に委ねられています。稚拙な加工技術しか持たない人間や悪意ある人間によって加工された情報は、いくら論理深度が深くなっていても、迂闊に利用すると不幸な結果を招く可能性が高いと言えます。

 話を戻しましょう。一次情報はそれだけでは記事にしづらいですから、必要な部分を残してそれ以外は捨てる、つまり論理深度を深める加工作業がどうしても必要になります。この時、あくまでも私の個人的な印象ですが、日本の新聞記者(や雑誌記者)は情報を捨てなさすぎる気がするのですね。「何でそれだけの取材や情報でそこまで言い切れちゃうの?」という所までやってしまうことが非常に多い。私たち研究者ならば、その数十倍の情報を集めなければ、とてもそこまで断言出来ねーよということを、日本のマスコミは平気で断言してしまう。

 おわかりでしょうか。例えば「○○は××である」という命題があったとします。まともな研究者なら、その命題を主張するために関連文献を渉猟し、不足部分は自分で調べて一次資料を使い、そうやって集めた大量の情報を廃棄しながらその命題を引き出します。ところがどうも。日本の新聞記者とか雑誌記者はそうじゃない。何か取材したい業界で有名そうな人のところに行って話を聞いて、そこで聞いた話をそのまま作文にして売る。そのように見える。だから同じバイト数の命題でも論理深度が極めて浅い。のではないかと思える。

 ここが問題です。ファーストハンドの情報を得られるという点では商業メディアは貴重です。しかしそこで書いている社員ライターの多くは、10のソースを使って8の命題を書くような、つまり非常に論理深度の浅い作文を書く。

 一昔前ならば、学生は新聞を読めと私も言っていたでしょう。しかし、日本の新聞や雑誌には「一次情報を得られる」というメリットと同時に「論理深度の浅い作文を読まされる」というデメリットもある。はっきり書きますが、私は学生さんたちに、現在の日本の新聞や雑誌記事(の大部分)のような論理深度の浅い作文を真似して欲しくありません。「こんな程度の論理展開で世の中に通用する」と思って欲しくない。

 結局私が選んだのは、「書き手の素性を常に気にしつつ、単行本を沢山読みなさい」という選択肢。もちろん単行本も玉石混淆ですが、書き手の素性はある程度見切ることが出来る。きちんとした専門教育を受け、その分野でのきちんとした活動歴がある人物の本を選んで読みなさいと。著者紹介の欄の学歴、学位、職歴、主要著書を見て、その分野の「専門家」かそうでないかを見切れと。

 今日で半年の講義が終わりました。若者たちはそれなりに優秀でした。きっと私が身に付けて欲しかったメディアリテラシーを身に付けていってくれたことと思います。幸運を祈る。