鏡よ鏡、鏡ちゃん

 2巻発売祭りってことで、とっときのネタをバンバン使います(だから買って褒めて・・・・)。

 今日のお題はこれ。ベラスケス作「ラス・メニーナス(女官たち)」。


 ご存じ、プラド美術館の至宝。もちろん本シリーズの読者様は、隊長の時代のその土地が「牧草地(プラド)」と呼ばれるナンパスポットだってことはご存じですよね。隊長と警部補が遠い目をしていたのもここでしたっけ。

 この作品はベラスケスのキャリアでもかなり後の方の制作になります。完成が1656年。ロクロワの戦いで隊長が行方をくらましてから10年以上の後。

 画面の左の方で画布に向かってこちらを見つめているのがベラスケス先生その人ね。中央にいるのはフェリペ4世陛下の2番目の奥様である(つまり2巻の後半で出てくるあの奥さんではない)アウストリアのマリアナちゃんが生んだ女の子。マリガリータ王女。もう皆さんお忘れだと思うのでもう一度書きますが、アウストリアのマリアナちゃんは1巻でイングランドのチャールズ坊やがナンパに来たマリアナ王女の娘ですよ。

 画面奥の鏡に見えるのがそのイケナイ近親●●的夫婦です。妹の娘を娶ったシスコンのフェリペ4世くんとその嫁だ。つまり、この絵の情景を現地で見ておられたわけですな。イケナイ夫婦が。

 この絵は、この鏡の中のイケナイ夫婦の存在でも有名ですね。いや、禁断の色恋をテーマにした絵ならいくらでも西洋にはありましたから、そういう所で有名なわけではない。そうではなくて、この鏡の中に映ったイケナイ夫婦というのは、要するに「絵を鑑賞している人」の象徴なのですよ。おわかりでしょうか。わかるわけないですね。

 ここでいきなり翻訳家から美学の研究者としてのかとうに入れ替わる私です。現在でこそこういった作品というのは、作り手がいて作られたブツがあって、それを見る(聴く・触る・嗅ぐ・食べる)受け手がいるということを前提に論じられていますが、一枚の絵の中に「絵は描いた奴とブツとそれを見る奴で成立するもんだ」という構造を表現したものというのは、知られている限り西洋絵画ではこれが最初の一撃だったんですね。

 つまりこういうことです。ゲージツ作品というのは、それだけがポッと落ちていても意味を為さない。それは受け手によって受け止められて初めてゲージツ作品となり、ゲージツ作品としての意味が与えられる。これは20世紀以降の美学・芸術学の基本中の基本の考え方です。しかし、昔はそんなこと考えてなかったんですね。凄いものは神様がゲージツとして凄くしてるんだから、人間がいようがいまいが凄いんだと思っていた。なんせ神様っすから。うかつに反論しようものならボカネグラ御大に引っ張られてトレドの地下牢で魅惑の拷問フルコースっす。

 そういう考え方が毒抜きされて、ゲージツ作品ってのはそれを受け取る奴がいてはじめてゲージツ作品なんだって安心して言えるようになったのは、たかだかこの100年のことなんですねえ。

 ところがこのベラスケス先生、なんと17世紀の半ば頃に、既にゲージツ作品の本質の一端を捉えていたのではないか。この絵を見ていると、そんな妄想もふくらんで来るんですね、みなさん。だからこの絵は哲学的な絵だということになっている。

 ま、そんな難しいことを考えなくても、見ればわかりますか。この絵は凄いですよね。

 長くなったのでここで一旦、CM行きます。この絵の面白さは実はこれだけじゃないんだよ。2巻と併せて楽しめるネタがまだまだ隠れているのなのよ。ああ、酔ってるな俺。