「カピタン・アラトリステ」シリーズの登場人物は、特に悪役に見所のある人物が多いのですが、その中でも小生が一押しの怪男児が、ご存じグアルテリオ・マラテスタ。イタリアはシチリア島出身の殺し屋で、アラトリステの宿敵として大活躍するお方です。既に読了された方はマラテスタ師匠の魅力をよくご存じのことでしょう。
さて。マラテスタ師匠といえば、何と言ってもその出囃子ね。ただしマラテスタ師匠は無駄金を使わないクールな男なので、出囃子の演奏は他人任せにせず、自分で演奏しながらの登場が基本のようです。
曲は「シャコンヌ」。それでは「シャコンヌ」ってどんな曲なのか。一応、私は日本音楽学会正会員ですから、適当なことを書くにしても、それくさい粉飾は施さなければいけません。というわけで、昔使った教科書を引っ張り出して調べて参りましたよ(修士課程の院試で使って以来なんだなこれが)。
まず押さえておきたいのが、「シャコンヌというのはジャンルの名前であって、特定の曲の名前ではない」ということ。だから駅前のツタヤに行って「マラテスタ師匠のテーマソングください」と言っても、この曲というのを決められないんですね。
それでは、具体的には「シャコンヌ」というのはどんな音楽なのか。順に説明してまいりましょう。
ヨーロッパのえらい人が耳にしていた音楽のことを、現在では「クラシック」と呼ぶわけですが、アラトリステたちがマドリッドの裏通りで暗躍していた時代すなわち17世紀のアタマくらいというのは、この種の音楽の一大転換期でした。西洋音楽史的な時代区分法で言うと、バロックという時代に当たります。学生には「バロックは1600年から1750年まで」と憶えさせます。もちろん現在の音楽学ではそんな豪快な割り切りはしていないのですが、四捨五入すればそんな感じ。17世紀が始まってからヨハン・セバスティアン・バッハが死ぬまで。1600年頃に「クラシック」の基本的な形が出来上がり、古典派、ロマン派の時代にその形でやれることが限界まで追求されて、印象派でアンコールをやって、その後は「現代音楽」という別のジャンルになる。その始まりの時代がバロック時代だったんですね。
16世紀まで、ヨーロッパのえらい人が聴いていた音楽の中心は声楽でした。声が主役。以前にブームになった「グレゴリオ聖歌」なんかを想像していただくとわかりやすいですね。ところが、17世紀に入る頃になって、楽器の性能がググっと上がって参ります。良い楽器を作れるだけヨーロッパ社会が豊かになってきたということもありますし、いい加減、声楽に飽きたということもあるでしょう。そして17世紀に花開いたのが、様々な器楽でした。インスト楽曲ですよ。中心となるのは鍵盤楽器です。特に幅をきかせていたのがハープシコードとオルガンです。それからバロック時代前半にはリュートというのもまだ頑張っていました。
そして、えらい人の為に、えらい人の家で、えらい人に雇われている専属の楽隊が、ハープシコードやリュートで演奏して差し上げていた器楽曲の中に、えらい人たちが踊るための曲、すなわち舞踏曲というものがあったのでした。「シャコンヌ」はこの舞踏曲の一つのジャンルですね。ネタとなったのはスペイン方面の民俗音楽だったようです。その雰囲気をパクって、えらい人用に上品に仕上げた。辞書的な説明はこんな感じです。
「この種の舞踏曲は低声部で短い主題が何度も繰り返され、上声部では対位法的進行が変化しつつ続く構成であり、またパッサカリアやシャコンヌにおいては、和声的進行に基づくどちらかといえば自由な変奏曲となるものもあった。」
なんのことだかさっぱりわかりませんなあ。これを分かりやすくも適当に書き直すとこうなります。
「鍵盤奏者の左手はひたすら同じテーマを弾き続け、逆に右手は追いかけっこしながら次々にビミョーに変化していくようなメロディをチャラチャラと展開した。さらに和音の繋げ方のセオリーが確立してくると、左手で淡々と和音を弾きながら右手で適当に雰囲気を出してアドリブを繰り出す曲をパッサカリアとかシャコンヌと呼ぶようになった。」
申し訳ない。私自身の専門は音楽学の中でも、どちらかといえば社会学や教科教育学寄りなもんで、こういう西洋音楽史はあまり得意ではないのです。
きっとマラテスタ師匠はどこかのえらい人の家で「シャコンヌ」を聴いて、気に入っちゃったんでしょうね。それで自分の入場テーマにした。誰の書いたどの「シャコンヌ」かは謎です。だって当時の作曲屋といえば、次から次へと新曲を書いて、一回か二回演奏してそれでその曲はもう使わないという、いわゆる一つの書き飛ばしが基本でしたから。しかも作曲屋なんてものは無数にいました。いくらでもいた。現在まで名を残している奴なんてのは、氷山の一角にすぎません。だから、マラテスタ師匠が耳にしたのも、きっとそういう無名作曲屋の書き飛ばした無名の「シャコンヌ」だったことでしょう。
さて。マラテスタ師匠の出囃子が特定できないのであれば、何か適当な「シャコンヌ」で雰囲気を出してみるしかありません。手っ取り早く手に入るのは、ヨハン・セバスティアン・バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の中の「パルティータ第二番」の五曲目か、伝トマス・アントニオ・ヴィターリ(実は違う人が書いたらしい)の「シャコンヌ」でしょう。後者はバロック時代のバイオリン独奏曲集を買ったらかなりの確率で入っている超有名曲です。私がヴァイオリン出してきて弾いて差し上げても良いのですが、練習する時間が無いのでまたの機会といたしましょう。
このどちらかのメロディをアタマに叩き込んだら、黒い帽子と黒いマントを被ってそれを口笛で吹いてみれば、気分はもうマラテスタ師匠ですね。間違いなく。「ティルリ、タタ~」という出だしから考えると伝ヴィターリ作の曲の方が近いかな。