ホクレア号の6度目のタヒチ行が発表されました。
ちょっと数えてみましょうか。
1976年、1980年、1985年、1992年、1995年。
1976年は言わずとしれた最初の航海。ウェイファインダーは若き日のマウ老師。1980年、ナイノアさんが独り立ちした航海であり、エディ・アイカウ鎮魂の航海。1985年は「再発見の航海」ですね。アオテアロアまで行って戻ってきた。1992年はラロトンガでの太平洋芸術祭に出ました。1995年はタプタプアテア・マラエでのタブー除去と6艘の航海カヌーによる集団航海。
この他、2000年にはラパ・ヌイからの帰り道にタヒチに寄って、そこからハワイに戻っています。往路5回、復路6回。
今回の航海のテーマは、まずはタヒチ往還成功30周年記念。そして故デイヴ・ライマン氏追悼。さらにこの航海で、ナイノアさんから数えると4世代目となるウェイファインダーがデビューすることになるそうです。どういう数え方なんでしょうかね。ナイノアさんが1世代目、その次のブルース・ブランケンフェルドさん、ショーティー・バートルマンさん、チャド・ババヤーンさんが2世代目、1990年代にデビューした方々が3代目、今度デビューのカイウラニ・マーフィーさんが4世代目ってことですか。ちなみにマーフィーさんは女性ですよ。
大したものです。よくぞここまで育ったと、ポリネシア航海協会の創設者たちも目を細めていることでしょう。
ですが、ポリネシア航海協会の創設者たちが、現在のポリネシア航海協会の活動のありように全面的に賛同しているというわけでも無い、らしいです。ご存じのように、ポリネシア航海協会の創設者はベン・フィニーさん、ハーブ・カネさん、故トミー・ホームズさんの3人でした。このうちハーブ・カネさんとトミー・ホームズさんは、1990-2000年のラパ・ヌイ航海、「Closing the triangle」を時期尚早であるとして批判しておられたのだそうです。
つまり、ラパ・ヌイに行ってそれでポリネシアン・トライアングルの完全踏破じゃないじゃないかということですね。トライアングルを閉じる前に、行くべき所があるだろうと、この方達は考えておられた。
このウェブログでは域外ポリネシア(英語ではPolynesian Outlierで、日本語の定訳はまだ無いようです)と表記している島々がそれに当たります。例えばソロモン諸島の離島(アヌタAnuta、レンネルRennel、ベローナBellrona、オントン・ジャワOntong Java、タウマコTaumako、ティコピアTikopia)、ヴァヌアツの一部(アニワAniwaと西部フツナFutuna)、ミクロネシア連邦のカピンガマランギKapingamarangi、ヌクオロNukuoro、ポナペのカピンガマランギ集落(カピンガマランギ島からの移民の集落)、パプアニューギニアのヌクマヌNukumanu、ヌクリアNukuria。
こういった地域は、メラネシア文化やミクロネシア文化の中に飛び地のように残った(あるいは生まれた)ポリネシア文化の地域です。そして、特にトミー・ホームズさんは、そういった場所に、ポリネシア本来の伝統航海術が化石のように残っていることを知っていて、ポリネシア航海協会を離れてからは、デヴィッド・ルイスさんやミミ・ジョージさんとともに、域外ポリネシアの伝統航海術の調査に取り組んでおられたといいます。トミー・ホームズさんが亡くなられたのも、まさにそういった調査の最中だったとか。
もちろん、ベン・フィニーさんが書いておられるように、もはやポリネシア航海協会は先住ハワイアンたちのものであり、彼らの教育と福祉に真摯に取り組んでいるポリネシア航海協会は素晴らしい組織だ、ということになるのですが。ポリネシア航海協会が1990年代以降、徐々に切り捨てて行った学術的側面の中に、域外ポリネシアという問題も含まれてしまうのでしょう。この間、主に学者たちから、ポリネシア航海協会は域外ポリネシアの伝統航海術とも向き合うべきだという指摘が繰り返しナイノアさんに伝えられたようですが、結果はご存じの通りです。限られた資金と時間を何に使うかという選択の問題として、ナイノアさんたちはハワイの福祉や教育、航空券を買ってハワイまで来られる程度には近代化したポリネシア人たちの訓練という道を選んだのでしょう。
それもまた一つの正しい選択であったと私は思いますよ。
ただ、来年予定されているマウ・カヌーとホクレア号のミクロネシアへの共同航海では、カピンガマランギ島もルート上に含まれているようです。マーシャル諸島からカロリン諸島、サタワル、ヤップというルートを考えるとカピンガマランギ島は明らかに寄り道ですから、ポリネシア航海協会も、域外ポリネシアの問題を全て忘却しているというわけでは無いようです。