なんか考えられないくらい忙しいんですけど・・・・。今日原稿1本あげて、年内にあと原稿3本。全部50枚級の・・・・・。何でこんな世捨て人がそんな目に遭うのやら・・・・。
さて、気を取り直します。
内田正洋さんが雑誌『Tarzan』でやっておられる連載、先月号と今月号ではわりと関連した話題が論じられていました。先月号では、海に関わる人間の活動を「海運」「漁労」「軍事」など実学的なものと、そうではない「文系」のものの四つに分類し、これまでの日本の海の文化で言うと「海運」「漁労」は立派なものがあったが、サーフィンやポリネシアのカヌーのように、海で遊ぶという発想は貧しかったんじゃないか、つまり「文系」の活動が無かったんじゃないかと指摘しておられました。内田さんの主張は、もちろんもっと日本の海でも「文系」の活動が盛り上がるべきだというもの。
今月号ではその話から少し具体的になって、相模湾周辺では三浦半島から葉山くらいまでのシーカヤッキングと、鎌倉より東側でのサーフィン、最近ではアウトリガーカヌーなど、海洋娯楽がかなり盛り上がってきているよという報告でした。
とはいえ、リモート・オセアニアのカヌーがみんなそういうレクリエーショナル・カヌーとして存在しているかというと、そうでもないんですね。
要するに、ミクロネシアではカヌーはあくまでも普段使いのアシであって、ハワイのように誇るべき文化の象徴として大切にされているわけではないと。言ってみれば乗用車と商用車の違いですね。ハワイのカヌーは明らかに乗用車です。ナンバープレートは300とか500。仕事の合間にガレージから出してきて乗る車。だから、何十年も前のオリジナルのハワイアン・コア材で作られたカヌーを大金かけてレストアする工房まである。博物館にも飾ってある。アオテアロアではカヌー彫刻家が芸術家として扱われている。私の友達にも愛車をチューンナップしてサーキットで走ってる人が結構おりますが、まさにあんな感じ。
一方、ミクロネシアのカヌーは商用車です。軽トラや4トントラック、あるいはカローラバンやハイエース。生活に欠かせないものという意味では大事だけれど、わざわざワックスなんかかけない。タイヤはスリップサインが出るまで使う。車の中はゴミと吸い殻だらけ。凹みや擦り傷気にしない。実際、かのシミオン・ホクレア号でさえ、サタワル島からヤップ州政府に売却された後、しばらく野ざらしで放置されていたそうですからね。
多分、そういう違いがある。それはつまり、ミクロネシアとポリネシアが置かれた立場を反映したものです。観光地や農地としてそれなりに高い商品価値があったポリネシアは、否応無しに商品経済に巻き込まれて生活してきましたから、のんびりカヌーなんか仕事に使ってる場合じゃない。商用車としてのカヌーは遙か昔に「終わって」いて、だからこそルーツを確認する為、あるいは楽しみの為、オフの日に敢えて乗るわけです。いわば旧車ね。仕事はプロボックス使ってるけど休みの日には敢えてアルファロメオ・ジュリアやモーガン乗るみたいな感覚。
一方、ミクロネシアはもともと島が異常に小さくて、核実験場にするか軍事基地にするかレアメタルが見つかったら採取するくらいしか、外部の人間にしてみれば価値がないわけです。で、なんとなくアメリカがくれる配給食料とお金で生きているみたいな人と、昔ながらの生活をしている人たちが残っている。カヌーも生活の道具としてバリバリに生き残ってる。
要するに、体系だった海洋娯楽としてのカヌーの影は薄いらしいんです。3ナンバーや5ナンバーのカヌーは無いらしい。全部4ナンバー8ナンバー。林さんは太平洋芸術祭で行われた航海術のシンポジウムをご覧になったそうですが、そこで一番暇そうな顔をしていたのがマウ老師の後継者たるセサリオさんだったそうですから(笑)。
何が言いたいのかというと、豊かな海洋文化がある土地でも、それだけでは海洋娯楽や「文系」の活動は豊かにならないってことです。アオテアロアのアウトリガーカヌーなんか、競技として復活するまで、文化としては100年以上も途絶えていましたしね。
じゃあ、海に「文系」が育つには、何が必要なのか。
(続く)