不自由な自由

 そろそろ原爆の日が近づいていますな。来年と噂されているホクレア号の日本航海にも、長崎・広島という寄港予定地があります。

 それにしても果たして原爆とは何だったのか。アメリカが原爆を日本列島に落としたのは正しい政策だったのか。

 こう考えてみましょうよ。1945年という時点で、核兵器がもたらす惨禍について具体的に理解している人はおりませんでした。そして、何時まで経っても負けを認めようとせずに頑強に抵抗を続ける日本を屈服させるには、これでもかというKOパンチが必要でした。

 そこで原爆です。

 原爆投下は、当時の国際状況や核兵器に関する知識の程度を考えれば、歴史的な必然でした。どうしようもないことだったのです。それに、アメリカが原爆を使ったおかげで日本は降伏し、戦争終結は早まりました。しかも、戦後日本はアメリカの核の傘の下で未曾有の繁栄を謳歌しました。

 とすれば、従来のような日本=悲惨な原爆の被害者という単純な歴史観は間違っていると言えます。

 ・・・・・・いや、暑さでアタマやられて書いてるんじゃないですよ。実はこのレトリック、小林よしのりさんが『沖縄論』で、薩摩藩の沖縄侵攻を論じる際に使っているレトリックのパクりです(笑)。

 小林さんは、薩摩藩の琉球侵略を、当時の東アジアの国際情勢下の必然であり、また結果的に琉球は薩摩藩の武力の庇護下で、現在の琉球の伝統文化とされているさまざまな文物を産み出したのだと説きます。薩摩藩の琉球侵略は「歴史上の必然」であり、どうしようもないことであって、結果的には(異民族である中国に侵略される前に同じ民族である日本に支配されることが出来たのだから)最善の道だったと主張します。

 このレトリックがどの程度、沖縄の人々に対して説得的なのかどうかは、私にはよくわかりません。原爆投下が歴史の必然であって、そのおかげで日本の戦後の繁栄があったんだと広島や長崎の人に面と向かって説く勇気は私にはありませんけれども。

 ただね。小林さん(や「新しい歴史教科書をつくる会」のみなさま)の人間観って、彼らが掲げた「自由主義」というネーミングのわりにはえらく不自由な人間観だなって思いますよ。

 というのも、彼らのレトリック「過去に日本列島人が行った侵略行為は歴史上の必然であった(から責任を問われる筋合いは無い。責任を負うのはそういう必然的な流れを産み出した歴史そのものだ)」というのは、突き詰めて考えれば哲学で言うところの決定論だからです。

 決定論というのは、人間の行動は予め決まっていた必然的な流れに沿って全て生起するものだよという考え方のことです。例えば全宇宙の素粒子の状態を全て知っていれば、この先それらがどう動くのかが全てわかるはずだという考え方がある。要するに人間には自由意志なんか有り得なくて、その歴史はみんな予め決まっているんだよという考え方ですね。その考え方を採るならば小林よしのりさんが「新しい歴史教科書をつくる会」と喧嘩別れしたのも歴史上の必然ってことですわ。

 ちなみに、こういった決定論的なものの見方の歴史は古くて、例えばキリスト教のカルヴァン派が考えていた予定説ってのもその一種ですね。個人が最終的に救われるかどうかは予め神様が決定済みであるという考え方ね。最近ですと、全宇宙の素粒子の状態を全て知っていても、結局それらがどう展開するのかを計算する時間が莫大過ぎるから、計算しているうちに現実の方で結果が出てしまうだろという批判も出てきました。つまり、世界が決定論的に出来ているかどうかは、人間には検証のしようがないという指摘ですね。それに、歴史を動かしているパラメータは莫大ですから、それを後から再計算して、歴史の流れが必然だったかどうかを再検証するのも難しい。

 要するに、「あれは歴史上の必然だった」かどうかは、私たちには知りようがない命題だってことです。本当なのかフカシなのかわかんないの。

 ただ一つ言える事は、決定論は人間の自由意志の力、人間が何かを主体的に産み出し、変革していく力を否定するってことですよ。だって決定論でいけばそれもまた「歴史上の必然」ですからね。偉いのは歴史であって人間じゃない。しかし創造には責任が伴う。薩摩藩の琉球侵略だって歴史創造の一つの局面です。それを薩摩藩の人々が自由意志のもとにやったとしたら、当然、当時の薩摩藩の人々には結果責任が課せられる。結果に責任を持たなきゃいけない。ところが小林さんは、その責任を歴史そのものに転嫁してしまう。全部歴史のせいだよ、日本人のせいじゃないよと。

 私は、小林さんのような考え方には与しません。私は人間の自由意志の存在を信じたいですね。ホクレア号の航海もエディ・アイカウの死も歴史上の必然だったとは考えたくない。エディやナイノアやタイガー・エスペリさん、その他、航海カヌー文化復興運動に関わった人々は、自らの自由意志でこの運動と成果を産み出してきたと考えたい。私自身、自分の人生は自分の自由意志で創ってきたと思いたいですねえ。私個人は、そうやって考えていた方が明るく毎日を過ごせる気がします。

 もちろん、そのように考える事は、これまでの自分の人生の失敗の責任を自分で負うってことですよ。私の人生だって忸怩たるものがいっぱいある。あの時あんなことを言わなければあの娘に捨てられずに済んだかもしれないとかさ。

 でもね。私は恥や失敗を自分で背負い込んででも、自由な存在でいたいですよ。自由を明け渡す代わりに責任も放棄するって、あまりお得な交換条件じゃないと思うな。だいたい「あれは自分がやったけど自分じゃない誰かのせいだから自分の責任じゃない」って、いい大人が言うような台詞じゃないよね。