今日は立教大学の卒業式です。私が社会学部で1年次から教えた最後の世代のうち、4年間で卒業単位を揃えられた者が卒業します。
彼・彼女らの多くとは3年次に多摩ニュータウンをフィールドとしたゼミを経験したのですが、彼・彼女らが初めてフィールドに入った時の感想が今でも忘れられません。
「何も無いね、ここ。」
念の為に補足しておくと、その前の年の3年ゼミで伊豆大島のフィールド調査実習に行った時も、やはり同じ感想が聞かれました。
「何にも無い!」
では彼・彼女らにとって「何かがある」とはどういうことなのでしょうか? 答えは簡単です。「お金で買えるものが沢山ある」こと。もちろん多摩ニュータウンだって何千万円か出せば不動産が買えるんですが、不動産への支出は消費ではなく投資(その支出をもとに再生産を行うもの)ですから、お金の使い方の意味が違いますね。
より精密に言い直しましょう。「消費の選択肢が沢山あること。」それぞれの持っているお金の量に応じて、あれを買おうかこれを買おうかという選択肢が数多くあること。その選択肢が多ければ多いほど、そしてその場所でしか消費出来ないものが多ければ多いほど、日本の大学生にとっては「何かがある」わけです。
何故、彼・彼女らはそこまで消費が好きなのか? そこには自由があるからです。学業もバイトも「これをやりなさい」と指示されて、仕方無くやるもの。でも消費だけは違います。自分の意志と趣味で主体的に商品を選び、お金を払い、「ありがとうございました。」と言ってもらえる。
自由と感謝。こんな素晴らしいものが得られる場は彼・彼女らの生活の中には他にありません。だから消費大好き。
That's OK.
ですが、多摩ニュータウンにも良く見ればスーパーやホムセンがあり、畑さえあります。JUKIの本社だってある(ミシンメーカー大手)。例えばスーパーで布きれと金具と針と糸を買って、カバンを作ることだって多摩ニュータウンでは出来る。畑で採れた野菜を使って料理を作ることが出来る。カメラを買って来て子供たちの写真を撮って引き伸ばして額装して親御さんにプレゼントすることも出来る。
材料を集め、道具を揃えて何かを作る方法を身につければ、そこで我々はもう一つの自由を手に入れられるのです。どんな生地で、どんなサイズで、どんな設計でカバンを作ろうか? それは全て、作り手の自由裁量です。
さらにですよ。そうやって作ったものを市場に持って行くと、使用価値のあるものは売れます。お金と交換出来るのです。言われたことを仕方無しにやって労賃を貰うのではなく、自分の自由な創造力を原動力として何かを作り、それを市場でお金を交換する。こうして我々は二つ目の自由を手に入れます。消費の自由と創造の自由。
話はまだ続きます。
そうやって創造したものが、一定以上のレベルに達すると、驚くべきことが起こります。商品をお客様にお渡しする時に、お客様に「ありがとう。」と言ってもらえるのです。こんな良いものを作ってくれてありがとう。こんな良い仕事してくれてありがとう。言われたことだけ仕方無くやっていた頃には想像もつかない事態です。
こうして我々は二つ目の自由に続き、二つ目の感謝を手に入れます。
しかもです。そうやって感謝される仕事を続けていると、次第にこういうことを言われるようになります。ずっとこの店に居て下さいね。ずっと弊社担当でお願いしますよ。あなたが異動しちゃうなんて、大ダメージだ・・・。
おわかりでしょうか。ここに到って彼・彼女は「商品を売る相手を選ぶ」という自由さえ手に入れたのです。三つ目の自由。消費の自由、創造の自由、そして仕事を選ぶ自由。
消費しか出来なかった彼・彼女が3倍の自由と2倍の感謝を手に入れるまでには、何年もかかるでしょう。そこまで辿り着かない人も居るはずです。でも、可能性は誰にでも開かれている。大切なのは、「消費者としての自分の他にもう一人、創作者としての自分を育てていくこと」だと思います。そして分かれ道に来た時には、消費者ではなく創作者としての自分を呼び出して、ウソの無いもの、美しいものを作って社会善の実現に寄与するルートはどちらかを相談しましょう。
当方からは以上です。お前ら、グッドラックだ!