三文詩人は過疎地を夢の空間に再構成可能か

人社系の研究者が何かの地域なりコミュニティなりを対象に議論を行うとき、議論のための枠組みとしてまず考えるのが「ローカル(地域)」「ネイション(民族)」「「ネイションステート(国民国家)」「マルチカルチュラル(他文化)・トランスカルチュラル(文化横断)」「グローバル(地球的)」「ヒストリカル(歴史的)」というような概念です。どの概念も確定的な定義があるわけではないですが、議論の積み重ねによって何となくこんな感じというイメージは確立しています。

ところが最近、実践レベルでもう一つの奇妙な枠組みが生まれていることに気づきました。おそらくやっている側も、自分たちが何をしようとしているのか、しているのか分かっていないのですが、上記の諸々の枠組みをパッチワークのように接ぎ合わせた奇妙でファンタジックな言説空間をベースにした実践です。既存の概念で言えば「ニューエイジ」という言葉が一番近いのかな。

私たち研究者、あるいは実務家たちが見ている、歴史的で多層的で利害や情念が複雑に入り組んだ地域/コミュニティに対し、彼ら彼女らは不思議な夢のような解釈を行います。そして、その夢こそが世界の真の姿であるという確信のもとに、地域/コミュニティの中に入っていって奇妙な活動を展開するのです。

それが良いのか悪いのかは、ケースバイケースなので何とも言えません。ただ、地域やコミュニティの上に夢や幻を描いて、そのファンタジーだけを見つつ何かをしていくというのは、あまり有効な手段には思えません。かつて社会構築主義が猛威をふるった頃、「構築主義者は5階から飛び降りても死なない。何故なら墜落死という社会的現実を彼らは脱構築することが出来るからだ」というブラックジョークを聞いたことがありますが、個人の肉体の損壊をどう社会的に意味づけるかという問題とは違い、地域やコミュニティは様々な世界観を持つ人間たちの相互作用の場なのですから、そこに参加する個々の人間の関係性を調整するものは、法律やお金や物理法則といった、多くの関係者がその力を認めているもの、あるいは個人の信念では脱構築出来る範囲が限られるようなものにならざるを得ないのです。

三文詩人たちがその詩の力だけで、自らに対抗しようとするものを全て説得していけるものかどうか。興味深い実験が始まろうとしているのかもしれません。