立教大の社会学部の兼任講師をやらないかという話を貰ったのが2007年度に入る前だったから、今年度が4年目、来年度で5年ということになる。アニキと慕う拓海さんが「仕事は5年ごとに新しいことをやれ」と言っていたが、とすれば来年度は集大成の年だし、俺自身そのつもりでいる。
4年前、兼任講師をやりはじめた頃、FD(faculty development)のミーティングで「この学科のミッションや、自分が任された講義がそのミッションの中でどんな位置づけにあるのかわかりづらいです」と素直に申し上げた。その翌年のミーティングでは、「学科のカリキュラムの中で1年次の後期のゼミの役割が突出して重いように思う。せめて通年で出来ないか」と申し上げた。
その翌年くらいだったか、さる筋から「本務校も持たない駆け出しがあんなことを言ったらまずい。生意気だと思われて専任になれなくなる」との忠告をいただいた。
旧帝大の有力学閥出身でも無ければ学会の有力ギルドのメンバーでもなく、つまりは大学の専任教員になる目も無いだろうし、ライフステージ的にそういうことを考える段階ではない俺はひどく驚いた。どんな組織にもその目的とするミッションがあり、パートタイムとはいえ仕事を任されたからにはそのミッションの実現の為に全力を尽くしていくのが当たり前だと俺は思っていたし、その為には本務校があるとかないとか、キャリアが浅いとか長いとかの下らない属性など考慮している暇など無いはずなのだ。そんな余計なことを考えている時間があるのなら、もっと上を目指して、もっともっと上のパフォーマンスを発揮出来る組織の実現の為にやるべきことがいくらでもある。
それが俺の価値観だ。
俺のことなどどうでも良い。たしかに大学の専任教員にはなれないだろうが、俺には俺の実力をきちんと評価してくれる一流の職業人の友人たちが沢山いる。アカデミアに就職出来なければ行き暮れるような役立たずではない。というよりも、この一回限りの人生の残りをアカデミアの住民として過ごすということが、取り返しのつかない浪費のように俺には感じられる。俺がこの先も若者たちを教えていくとしたら、もっともっとクオリティの高い教育を俺は提供していきたい。だが、兼任講師という立場でやれることには限界があるし、専任教員になればその限界を超えていけるのかと考えると、(俺の教え方に限れば)どう考えても専任になった方が教育の質は下がるはずだ。
つまり、「この枠組みの中でやれることは近々やりつくす」。
だから、もういつでも退くつもりはある。
これは俺のプライドだが、立教学院が俺に払っていたのと同じ金額で、俺と同等かそれ以上のクオリティの教育を提供する人材を捜し当てることは結構難しいだろう。俺は自分のアカデミックキャリアを捨てたところからスタートしている。博士課程を出たばかりの人々にとって、アカデミックキャリアは家族と引き替えにしても死守すべきものだ。だが、俺にとって大切なのは家族であり、目の前にいる若者たちだ。彼らの幸福とは何かを考えた時、専任教員という選択肢など考慮するに足らなかった。使い終わった便所紙程度の価値さえ俺には見いだせなかった。
宮本常一先生は晩年になって多摩美術大の教授になったが、毎月決まった額の給料が支払われる状況を「ヤバい」と考え、その給料の大半を弟子たちを育てる為に使ってしまったという。自分の食い扶持は以前と同じようにライターの仕事で稼いでいたそうな。マウ先生も後先考えず、ともかくナイノア師に航海術を教えるためにオアフに旅立った。クセルク先生も損得抜きで若きナイノアが西洋の天文学を学ぶサポートをして、ついにはタヒチまで行かれた。都立のろう学校にも殆ど不眠不休でろう教育に打ち込んでおられる方々が沢山いる。例えば中央ろう学校の橋本先生は俺と同い年だが、実は俺のゼミ運営の基本的なフォーマットは橋本先生がプライベートで運営されている聴覚障害児・者サークルのそれの完コピだ。
俺の尊敬する先生方の生きざまはかくのごとしだ。俺はこの人たちの前に出て恥じない生き方をしたい。
この先に何が待っているのか。それは知らない。やりたいことはいくらでもある。この4年間で教えてきた若者たちがいよいよ社会に出て、本物の実力をつけていく時期とも、それは重なる。彼らと一緒に、もっともっと面白いことをやっていきたい気持ちも強い。既に俺の周囲には、ohanaと呼んで良いような若者たちのコミュニティが出来つつある。この絆はいずれどこかで大きな花を咲かせるはずだ。