時間足りねえわ

 今日は演習の3回目・・・・3回目だよな?

 毎日新聞社に現在在籍している書き手の中で、私が知る限りでは唯一読むに値する文章を書く藤原章生さんの著書『絵はがきにされた少年』の中から、写真作品とその影響を取材した2本のルポルタージュ「あるカメラマンの死」および「絵はがきにされた少年」を取り上げて議論する予定でした。

 予定だったんですが、ある意味予想通り、時間が全然足りなくて。何とか駆け足で「あるカメラマンの死」の方は論じられたんですが、「絵はがきにされた少年」は全く取り上げられませんでした。とはいえ、次週はもう写真撮影の技術講習に入るので、ひとまず理論編はここで中断。次に理論編をやるのは5月最終週ですが、そこでは既にアナウンスしているように、撮影者と「価値自由」の問題を論じますから、やはり「絵はがきにされた少年」を論ずる時間がない。

 こうなったら自由参加合宿で議論の時間をとるしかないのかな。でも、自由参加合宿では民俗学とか宮本常一とか網野善彦の話題を取り上げたいんだよな~。

 「絵はがきにされた少年」というルポルタージュのあらすじは次のようなものです。昔々、南アフリカのとある寒村に住んでいた少年のところにどこかから白人男性がやってきて、クリケットをしているふりをさせて、その光景を写真に撮って去っていった。その何十年後か、元少年はかつての自分が写った写真を見つけて驚嘆します。その写真の出所を調べてみたところ、あの時に撮影された写真が絵はがきになって売られているらしいので、彼は町に出かけていって、大枚をはたいてその絵はがきを引き延ばした写真を手に入れ、自宅に持ち帰ります。彼は少年時代の自分が写ったその写真を宝物として大切に飾り、日本から訪ねてきた新聞記者に見せる・・・・。そういう話です。

 植民地の子供たちに適当にクリケットの真似をさせて写真を撮り、それを売って商売した男の振るまいは、現在の倫理基準から見れば完全にアウトですが、その時代ならばまだ肖像権の概念も無かったわけですから、まあそういうことをする輩も普通に存在したでしょうとしか申し上げられない。ポストコロニアリズム的な見方をすれば、この男が植民地からの収奪を行ったとか、植民地に対する文化的抑圧を行ったという解釈も容易です。

 ただ問題は。写された当の本人が、その写真が存在していることを心から喜び、感謝さえしているということ。とするならば、この事例において植民者による植民地からの収奪は存在したのか? これが今回のお題でした。

 収奪はあった。別の言い方をするならば、男はモデルとなった少年に金銭的キックバックをすべきだったし、商品化に際しては少年の了承を得るべきだったという指摘も沢山出てきました。面白い意見としては、モデルとなった少年が「奪われた」と思っていない以上、金銭的収奪は無かった。しかし男は少年の尊厳を収奪したというものもありました。

 どれが正解ということは無いんです。こういう問題に一つだけの正解というものはあり得ない。大事なのは自分のアタマで納得いくまで考え、自分自身が責任を持てる判断を下すこと。どこぞの新聞記者みたいに「~という批判が出そうだ」「~という反論もありそうだ」などという責任回避な文体で自分の意見を書くのではなくね。自分のアタマで考え、自分の責任で判断し、その判断への批判を両足を踏ん張って受け止める。批判避けの小細工ばかり上手な人間には、大した仕事は出来ませんから。人間存在自体に宿るその種の強さを身につけて欲しいと私は思っています。

 話を続けましょう。

 今回、学生たちの大半は、収奪はあったと考えました。商売種を植民地からムシったくせに、植民地には何もキックバックしなかっただろテメー。汚ねえぞそれ。

 その意見は自然だし、まずそこから出発しなければいけないのも事実。でも、そこに留まっていては、ただのポスコロで終わってしまう。もっと別のレイヤーも見てみようじゃないの。もっとカメラの位置を引いて考えてみるんだ。収奪と言うからには、誰かが誰かから何かムシっていったんだよな。じゃあ何をムシったんだ? ムシられる側の意志を無視して持って行って、それでも美味しくいただけるものって何? そう。ゼニに換えられるもの。換金性のあるもの。鉱物や農作物や労働力やエキゾチックなイメージだね。こういうものは市場に出せば値段が付き、現金と交換することが出来る。経済学ではこれらのものを「経済財」「サービス」と呼ぶ。

 今回の事例では、経済財はどう動いたか?

第1段階 少年→撮影者 robbery
第2段階 撮影者←→絵はがき製造業者 trade
第3段階 絵はがき製造業者←→絵はがき流通業者 trade
第4段階 絵はがき流通業者←→(元)少年 trade

 そう。もともと少年から撮影者が盗んでいったイメージが一連の取引の出発点だったのだけれど、少年は最後に対価を払って絵はがき流通業者から自分のイメージを買っている。ここには矛盾がある。だから、第1段階は強奪(robbery)、第2段階以降は取引(trade)と位置づけておこう。

 でも、動き回ったのはこれだけなんだろうか?
 
 元少年は撮影者に感謝さえしていると発言している。ということは、元少年のところには、撮影者方面から何かが動いてきているはずなんだな。それは何か? 少年時代の思い出。priceless。プライスレスなもの、値段が付かないもの、経済財でもサービスでもないものが元少年のところに届いている。これも確実なことだ。オーケー。ここで経済学の話は終わりにしよう。値段が付かないもののやり取りを扱えるのは哲学と社会学だ。ここからは哲学のお話だ。

 元少年のところに届いたのは、少年時代のプライスレスな思い出だった。でも、値段が付かないものはどうやって世の中を動いていくのだろうか? 値段が付けられないんだから、お金や財やサービスで対価を取るわけにはいかない。そういうものは贈与(gift)として、人と人の間を動くしかない。だろ? 元少年は贈与物として思い出を受け取った。そう考えるしかない。これは経済財やサービスが動き回るレイヤーとは別のレイヤーの出来事だ。

 いやちょっと待ってくれ。問題の不躾な撮影者のところには、元少年の思い出がストックされていたのか? そこに贈与物となるべきものはあったのか? そういう疑問も出てくる。だって撮影者の方は、元少年のことなんか知ったこっちゃ無いってノリなんだもん。知らない奴の、知らない植民地人の思い出なんかわざわざ在庫しとくかね? 

 ここでもう一つ大事なことを教えよう。贈与物はどこか人智を越えたところから突然現れることがある。今日教えたでしょ。芸術作品は神様のプレゼントだって。神様が神性を作品にプレゼントしてくれないと、芸術作品は生まれないんだって。そこまで考えれば答えは見えたよな。

 元少年のところに届けられた贈与物の荷札の「送り主」の欄にはこう書いてあったはずなんだ。

「神様より。躾の悪い白人にタカらせちゃってゴメン。せめてものお詫びにこれ、受け取ってね。」

 全部全部をゼニカネのレイヤーで考えれば、収奪はありました。でも収奪された方は喜んでいました。変な話です、で終わりになっちゃう。だけど、ゼニカネのレイヤーと、その上にあって、ゼニカネのレイヤーの動きと何となく呼応しながら回っているギフトのレイヤーという二つの層を考えれば、この事例は「収奪」と「神からの贈与」の二つが重なった幸運なケースだよねと解釈出来る。

 だからねえ、君たち。こっからが一番大事な話だ。いくら地球がグローバル化したなんていっても、気楽に財やサービスを送れない土地ってのはまだまだ多いんだよ。robberyの対象にはできても、tradeの関係は容易には構築出来ない土地はじゃんすかある。そんな土地を君たちがたまたま訪れて、たまたま「神が降りた」スペシャルな一枚が撮れちゃったのなら、それはもうtradeのレイヤーではなくgiftのレイヤーでの出来事として有り難くいただいておけ。ただし、そのgiftが君のもとにやってきた土地の人々に、やはりtradeではなくgiftのレイヤーで何が贈れるのかを、そりゃもう死にものぐるいで考えること。