今日からホクレアの話に入りました

 いよいよ前期の講義も今日を含めてあと3回。

 最初は試験時間90分間かと思っていたら、教務から「履修者が多いので先生の講義は試験時間50分間です」と言われてしまいました。なので、講義に出てきている学生にだけ、試験内容を若干リークして、減った40分間の分の負担を減らしてあげたりしているのです。

 今日もまたちょっとだけ、試験本番の様子のチラ見を(始業ベルの鳴る前に)させてあげたりしてましたが、まあその辺も講義に出てこない学生は知る由も無く、どんな答案が出てくるものやら楽しみです。講義に出るも出ないも自由と最初に申し渡してありますが、講義に全く出ずに単位を取ろうと思ったら、相当な量のお勉強が必要ですからねえ。正直な話、ちゃんと講義を聴きに来ていた方が、時間を効率的に使えたと思いますね。

 今日は前回のまとめで、障害者コミュニティが文化を利用してコミュニティの置かれた状況を改善していこうとするときに、どんな落とし穴があるのかという話を最初にいたしました。詳しくは書きませんけども、ディスアビリティ・アートなど大した役には立たない、そもそもディスアビリティ・アートには商品としての致命的な欠陥がある。という、およそ障害社会学の研究者では私以外にとても口に出せないようなことを言い放っちゃったりして。

 まあでも、商売の基本を考えれば自明の話だと思うんですけどねえ。

 結局、障害者運動とか障害者運動に便乗する正義派の研究者たちって、自分たちの主張は正義なんだから、正義を尊重しない社会はおかしいという話ばかりしちゃうわけです。が、私は根性がねじ曲がっていますから、正義が正義として通る世の中なら誰も苦労なんかせえへんわと考える。よしんばその正義が法律や判例によって裏書きされたところで、人々の心の中には偏見や反感が残る。正義の主張も必要ですが、正義の主張だけでは大した成果は出ない。

 じゃあどうするのか?

 私が注目するのは商売です。商売というものの本質はモノの交換。そしてモノの交換は人間社会の根源にある。他人とモノを交換せずに生きられる人間なんか居ませんからね。ではモノの交換はどのような時に成立するのか? モノの交換が上手い人は、何が違うのか? そこに立ち戻って考えてみれば、ディスアビリティ・アートの商品企画としてのイケてなさもすぐにわかる。

 これ以上は書きませんけども。

 来週は何のDVDを持って行きましょうかねえ。メッツガー兄には「俺のDVDならどんどん講義で使ってくれ」と言ってもらってるし、いっぱつミクロネシアの航海文化の話でもしましょうか。