理想郷だろうか

 『Tarzan』誌の新しい号が出ました。今号も内田正洋さんのプルワット訪問記が掲載されています。。

 今回はプルワットの生活について。教会の祭壇がカヌー型だった話と、人々の生活リズムがスローだった話。つい最近、17世紀スペインの宗教裁判の話を翻訳し終わった私としては、「キリスト教の神は『キリスト様』じゃなくて神だろ!」とか余計なところで突っ込みを入れたくなるわけですが(しかも「神と子と精霊は三位一体である」とか難しい教義付きだ!!)、それはまあ余談。

 ちょっと首をかしげたくなったのは、平時にかなり高い程度の自給自足を実現しているプルワットをして「理想郷」と表現しておられたこと。

 南太平洋の島々の暮らしを「理想郷」と捉える先進国の旅行者、という存在はかのゴーギャンを初めとして枚挙に暇がないわけですが、う~ん、それってどうなんですかねえ。きっと素敵な島なんだろうとは思いますが・・・・。

 現実にはそういう「理想郷」を後にして町を目指す若者はミクロネシアでは極めて多いわけですよ。彼らが求めるのは雇用と娯楽と教育。いくら絶海の離島とはいえ、外界の情報は入ってきますから、血気盛んな若者はどうしても外の世界を目指したくなるんでしょうね。

 まあ、それは若さ故の過ち(なのか?)、年を食えばやはり故郷の良さが身に沁みるものなのでしょう。

 しかしそれにしても、「理想郷」は本当に理想郷なのでしょうか。例えばミクロネシア連邦のGDPの4割、国家予算の5割はアメリカ合衆国から投下される「自由連合協定補助金」です。よりわかりやすく言えば基地提供の代金ね。そのお金で月イチの連絡船が島々を回り、中心都市に病院や高校が建てられている。

 いやもうアメリカなんか追い出してかつての石器文明に戻れば良いんじゃないのか。それこそが理想郷だろという意見もあるかもしれませんよ。でも、それって本当に可能なんでしょうか? 日本列島を例えば江戸時代の社会に戻そうぜと言われてあなた賛成しますか? 乳幼児死亡率が5割6割当たり前の社会。今だったら抗生物質の一撃で完治する何でもない病気が死病になってしまう社会。

 私は嫌です。

 よりマシな生活、家族がより生き延びられそうな社会。そういうものを目指すのが人間の性だと私は思いますね。だってそこらに生えているタロイモだって蒸したり焼いたりして、つまり人為的に何か別の状況、もっと都合の良い状況を生み出さないと食えないんですからね。工夫すること、新しい可能性を追求し続けることは人間の本質なんじゃないのかな。

 一見「理想郷」に見える中央カロリン諸島の離島も、台風や津波や干ばつには滅法弱く、そもそも何故これらの島々に洗練された遠洋航海術が存在したのかと言えば、一朝事あったときに近隣の島に救援を求めに行く為でした。その互助組織の中で最も高い権力を獲得したのがヤップ島であり、現代においてはアメリカ合衆国ということです。「理想郷」は強力な他者に従属し、庇護を受けることで社会を安定化させてきた。彼らは「その方がマシ」だと判断して、外部との繋がりを持ってきた。その為の伝統的航海術でもありました。

 その代償がかつては定期的なヤップ島への朝貢の航海であり、現在はアメリカ軍への基地提供、あるいは核実験場の提供、兵士の提供・・・なのですね。

 マウ老師が1979年にハワイに戻った時に語った言葉、「もしも航海を止めたならば我々の存在は不可能となる」というのは、実は「外部との繋がりを絶ったらおれっちの離島なんかすぐに全滅だってば」という、極めて現実的で即物的な話だったのではないか。そんな気もしています。民族のアイデンティティとかそんな話以前に。

 もちろん、あまりにも外部(アメリカ)に依存しすぎた社会を再調整しようじゃないかという考え方はあって当然でしょう。現にマウ老師たちが「マイス」号でやろうとしているのは、そういう試みです。セサリオさんが直々に書いてくれたアンケートから判断する限りは。ですが、それはかつての完全自給自足的ミクロネシアに戻ろうぜという話じゃないと思うんですよ。

 そんなようなことを色々思い出していると、ミクロネシアの離島を「ここって理想郷じゃん!」と単純素朴に言い切ってしまうのは、ちょっと性急なんじゃないかと感じた次第です。でも、プルワットが本当に本物の理想郷だったら素直に謝ります