sauve qui peut

 「カピタン・アラトリステ」はご存じのように戦争ものでもあるので、翻訳作業でもそちら関係の知識が結構重要だったりします。前回紹介した銃の使い方もそうですが、陣形とか戦史、軍隊組織などなど、女性中心の翻訳チームではなかなか扱いづらいジャンルです。

 その点、私はミリタリーマニア上がりだし、エアソフトガンなら過去に10丁以上所有していたし、シミュレーションゲーム(ボードゲーム)も沢山持っているし、割とそういうのは得意だったりするのです。特に詳しいジャンルは第二次世界大戦の東部戦線ね。ドイツ機甲師団の電撃戦、ロシアの冬将軍、春の泥濘、スターリングラードやレニングラードの包囲戦。T34戦車。モーゼルKar98K小銃。斬り合いのシーンについては、チャンバラ小説をもっと読んで語彙を仕入れておいたほうが良かったかと思うのですが。

 さて、今日ご紹介するのは、「逃げられるものは逃げよ」という表現。2巻の最初の方で出てきたのかな。もっと上流の工程では何のことか分からなかったようですが、これ、壊滅しかけた部隊の指揮官が兵士たち最後に出す命令のことです。

 これって一種の決まり文句なんですね。部隊が壊滅して作戦行動が不可能になった時点で指揮官が下命するわけです。「諸君は充分に兵士としての義務を果たした。我が部隊はここで解散する。諸君は可能ならば生き延びよ。」

 あとは兵士個人の才覚で落ち延びるなり、捕虜となるなり、最後まで戦うなり、好きにしろと。ただし君たちはもう義務を果たしたのだから、あとは生き延びることを最優先にして行動しろと。生きて故郷に帰って子供を作り、育てろと。

 普通の軍隊じゃなかったとある国の軍隊は、「戦陣訓」なる不気味なものをこしらえて、前線の指揮官がこの命令を下すのを阻止してしまったわけですが(怖)。・・・・・・そういえば、一歩間違えれば私の祖父もミンダナオ島の土になってたんだよなあ。その祖父は死期が迫った時、自分の従軍経験を子孫に書き残して逝きました。『比島敗走記』という自費出版本になって、国会図書館にも納本されています。それにしても、祖父が某軍国主義カルト教団に祀られる羽目にならなくて本当に良かったぜ。ちなみに祖父の手記には、敗走の途中で体力が尽きて部隊についていけなくなった戦友と別れる場面が出てきます。二人はこう言葉を交わします。

 「わかった。お前は一足先に富山に帰れ。」

 つまり死んで富山に帰って待っていてくれということです。ええ、「靖国で会おう」なんて台詞は出てきませんとも。彼らはそれほど間抜けでは無かった。彼らの心中にあったのは故郷の富山の山河でした。

 現在私のところに来ている3巻『ブレダの太陽』も、戦場の悲惨をこれでもかと描くお話です。イニゴくんはここで、隊長がかつて何を見聞きして来たのかを目の当たりにするわけです。

 この巻でも、やはりこの表現は登場します。

 「諸君は可能な限り生き延びよ」

 イニゴくんは、マウリッツ・ファン・ナッサウの主力部隊と直接当たる自分たちの部隊がそういう状況に陥るという可能性を目の当たりにして、最前線に向かう途中で恐れおののくのですね。

 「生き延びよ」

 これは、とっても重い言葉なんです。戦場では。多分。実感したくはないですが。でも、そういう言葉さえ飲み込ませた軍隊がかつて存在したというのは、なかなか体感気温を下げてくれるホラーです。そういう軍隊はホラー映画の中だけにしておきたいものです。