深化する翻訳なんですか・・・・はぁ

 朝日新聞社の論壇誌『論座』の第二特集が「深化する翻訳」というタイトルだったので、ざっと眺めてみました。

 目次は以下の通り。

なぜいま新訳なのか:中島美奈 編集部

村上春樹訳の繊細さと過剰さ:中条省平 フランス文学者、学習院大学教授

翻訳とは忠実さの芸術である:加藤晴久 東京大学・恵泉女学園大学名誉教授

言語学は翻訳の役に立つか:池上嘉彦 昭和女子大学教授

言葉の「わからなさ」と向かい合う:佐藤健二 東京大学教授

翻訳と教養をめぐる「怪物」対談「文化的背景を伝えきれますか」「笑いに限っては99%できます」

村上陽一郎 国際基督教大学教授
柳瀬尚紀 英文学者、翻訳家

インタビュー 1 言葉の裏にある概念を伝えたい 『国富論』『自由論』の 新訳にあたって:山岡洋一 翻訳家

インタビュー 2 訳文は耳で書く 英語の達人・ベック先生に聞く:別宮貞徳 翻訳家

インタビュー 3 大先生の訳をありがたがる時代ではない 翻訳論の立場から:柳父 章 評論家

 全部を読んだわけじゃないんですが、何かこう・・・・・何ていうんでしょうかねえ。フェラーリとポルシェとランボルギーニだけ採り上げて自動車を論じているような感じですね。だって翻訳っつったら市場規模で言えば産業翻訳>>>>>>>>>>文芸翻訳ですからね。文芸翻訳だけが翻訳だと思っている先生方ばかり集めて手柄自慢と他人の粗探し(+太鼓持ち)大会をされてもなあと。

 最初の中条さんの文章はただの村上春樹ヨイショだし(読んでいて臀部が痒くなってくるくらいに)、二番目の加藤さんの主張は「翻訳家たるものその言語で同僚の外国人教員と闊達に議論出来なければならない」って、翻訳家=大学教員すか、良い時代に人生を過ごされましたねとしか申し上げようがない。まあ私も英語ならそれなりに会話出来ますけど、それも相手がゆっくり喋ってくれた場合に限りますね。結構言葉に詰まることも多いですし。村上・柳瀬対談も自慢話と他人の粗探しに終始していて、あまり気分の良いもんじゃなかったですね。

 もちろん私だって、これまで自分の手がけた文芸翻訳に関して言えば、あの時点であれ以上の質の翻訳が出来る日本人なんか居なかったって思ってますし、公言もしますけど、でも文芸翻訳ってそれが行われる時代と切り離して考えられないとも思いますからね。『ライオンと魔女』でエドムンドが魔女から貰うお菓子をターキッシュ・デライトからプリンに変えた現在の邦訳だって、当時はそれなりの意味があったんでしょう。私の翻訳技術もブロードバンド時代でなければ成立しない部分が大きいですし、今の時代に合った文体で出力しているわけです。例えば「アラトリステ」そのものは漢文にだって擬古文にだって翻訳可能ですけれども、今の時代に二葉亭四迷みたいな文体で「アラトリステ」を訳したってしょうがないですよね。

 文体だけじゃないです。「アラトリステ」の日本語版が日本語世界の中で置かれる位置だって重要です。「アラトリステ」が日本で売られているのは「純文学と大衆文学」という古い二項対立図式が有効な時代ではなく、ラノベ(ライトノベル)が文芸評論の真面目な対象として成立しているような時代です。その中でどんな読者を想定して訳文を作るか。その辺まで考えないといけない。ご存じのようにレベルテの旦那は作中の随所に社会批判を入れて来ていますが、あれをどういった文体で訳すかは特に悩むところなんですよ。

 ラノベとして訳すのであれば原文を直訳して、そっから4割引きくらいで平易な文章にしちゃうでしょう。でも今回はそうなっていません。私は「アラトリステ」の日本における読者を「純文学や古典も読みこなせるが大衆文学を抵抗無く多読する人々」と想定していますから、あの辺は少々難しくても理解して貰えると考えています。だからレベルテの旦那の社会批判部分は学術論文に近い文体でやる。活劇部分はチャンバラ小説文体でやる。苦手なのはラブシーンとSEXシーンなんですが(最近イニゴくんがお盛んなんで困ります実際)、その辺はまあ下訳のリズムを整える程度で勘弁してもらって(笑)。

 まあでもね。別の人がやったら全然違うもんになるんだろうし、それはそれで良いんじゃないかと思います。文芸翻訳って巡り合わせですからね。やりたくても翻訳権取れなかったり先に訳されてたら出版出来ませんから。他人の誤訳を見つけて鬼の首でも取ったようにマスメディアで叩くってのは、はしたないですね。ええ。字幕翻訳の某大家くらいの寡占状況だったら叩かれてもしょうがないかとは思いますが。

追記:佐藤健二さんや別宮さんの部分は結構良かったです。