今日はヤップ島の航海カヌーのお話。
ヤップ島というのはミクロネシア連邦の西の端にある島で、民族的にはサタワル島やウォレアイ島などがあるカロリン諸島とはかなり異なる*らしいのですが、歴史的には非常に深い関わりがありました。
ヤップ島から東に1500kmも行ったナモヌイト環礁からヤップ島に至る、貢ぎ物を届ける定期的な航海が延々と続けられていたのです。これをサウェイSaweiと呼びます。ナモヌイト環礁からスタートしたカヌーはプルワット、サタワル、ラモトレク、イファリク、ウォレアイ、ファイス、ウルシーと島々を数珠繋ぎに結んでいき、次々に航海カヌーが加わって、最終的にヤップに到着する頃には10艘以上のカヌー船団になっていたそうです。
ヤップ島に航海カヌー船団が持ってくるのは織物やロープ、貝や鼈甲で作った装飾品など。そうしてヤップ島に到着した航海カヌー船団は、それぞれ自分の島が仕えている大酋長の所に貢ぎ物を持ち込みます。すると大酋長はカヌーのクルーを盛大に歓待して疲れを労い、土器や石器、イモ類や香料など、珊瑚礁の島では手に入らない返礼品をドーンと弾んで持たせて送り返すのです。
このサウェイ航海は、島々の間での情報交換や貿易の機会ともなる大事なイベントでした。ドイツ、続いて日本がこの島々を支配したときにこの航海は禁止されてしまうのですが、現在でも中央カロリン諸島の島々はヤップ島の大酋長に仕えているのです。マウ師やレッパン師もちょくちょくヤップ島にいらしたそうですし、サタワル島でマウ師に弟子入りしたコールマンも最初にヤップ島でサタワル島の人々に会いました。
さて、この話から考えると、ヤップ島はカヌーが来るばかりで自分たちは出ていかないじゃないかとなるのですが、どっこいそうでもなくて、ヤップ島にもまた航海カヌーを駆って遠く旅する技術は伝わっていました。
ところが、やはり20世紀に入るとこの島にも船外機の波が押し寄せ、航海カヌーを作って旅をする技術は廃れていきます。そんな中、70歳にもなろうとする1人の大酋長が立ち上がりました。新しく航海カヌーを作って旅をして、若者たちに伝統航海術を学ばせたい。
彼の夢はペサウ号という航海カヌーに結集し、1986年、ヤップ島から小笠原諸島の父島まで見事に航海を成功させました。
現在、この航海カヌー「ペサウ号」は尼崎にある園田学園大学で展示保存されているそうです。
*中央カロリン諸島は核ミクロネシア語・チューク語系の言葉を話すのに対して、ヤップ島はヤップ語なのだそうです。サタワル語はむしろヤップ語に近いらしいのですが。