福島市のパブリックアートバトルをして、市民の分断や対立を引き起こしたから撤去という論が、作者自身からもあった。
しかし、それは順番が逆なんじゃないかと思う。
何か紛争案件が降ってきたから、それによって分断や対立が生まれるという図式を最近疑っている。
稲城市も南山紛争のとき外部から活動家がいっぱい乗り込んできて共産党も暗躍して市民の分断が可視化されたが、今考えれば、もともと相互理解が無理な人たちが同じ地域に住んでいたということでしかなく、互いに攻撃をしないなら分断はむしろ住みやすさを保証すると思っている。
何故ならば、誰が自分と意見が遠いかわかるわけだから。そういう人とは必要最小限の関わりをすれば良いのだ。
同じ地域に住んでいるからみんな仲良くなんて気持ち悪すぎる。お互い好きにやれるのが都市の良さだ。都市社会は一枚岩でないのが当然。都市社会はバラバラでありつつ明文化されたルールによって統合されている。
人間社会がある限り分断も対立も極論も必ずある。
分断とか対立の存在を当たり前のものとして受け入れていないから、日本の学校は「うちの学校にイジメはありません」になり、日本の会社は「うちの会社にパワハラやセクハラはありません」になるのではないか。
必要なのは分断や対立を、潰し合いや足の引っ張り合いに発展させないことだ。
「ま、やりたきゃやったら良いんじゃないのー、知らんけど」
くらいで流せば良いのに徹底的にやる、その先の先にはAK47とか爆薬で殺し合いをするシリアやパレスチナやイエメンみたいな社会が待っている。
ちなみに南山紛争に外部から介入してきた活動家のうちポール・コールマンと菊池木乃実夫婦はその後南米へ移住、口先介入した高畑勲はその後は「かぐや姫」。一方で、あれを機会に稲城に移住してきた人たちもいて、花枝聖さんは地元にも完全に溶け込んで今や稲城の盛り上げ役の一人として大活躍。ほんと素晴らしい。
対立を伴う議論も悪いことばかりではないのだ。