橋本様
2年間の青年座研究所での勉強、お疲れ様でした。
また當瀬このみを仲間として共に歩んでいただいたことも心より感謝しております。ありがとうございました。
最後の舞台は、「わが町」に比べると流石に皆さん長足の進歩を遂げておられたと思います。橋本さんもA班のエミリーよりは芸の幅が広がっていたはずです。陣痛のシーンでは、私の妻の出産に立ち会った時を思い出しながら見ていましたが、十分に「それっぽい」演技でした。
橋本さんの演じたツル子についてもう少し詳しく分析すると、劇中では他の8組のカップルがそれぞれの形で表現した愛が、最後に男女間の性愛を越えた出産という、より強く豊かな形でのエロスによって締めくくられるという、大変に重い役どころです。また「青年座研究所41期」という一座を追ってきた観客にとっては、もう一つ、「わが町」の最後に出産で死んでしまったエミリーとの対比が生まれ、更に「橋本菜摘」という女優がどのようにして「わが町のエミリー」を越えて誕生するのか、その三つが主要な解釈の視点となります。
このうち最初の視点から見ると、役柄上、陣痛シーンは全ての表現のフェーダーを一番上まで上げざるを得ません。そこは動かしがたい。とすると陣痛と陣痛の間の演技や朗読をどう作るかがクリアすべき課題です。結論から言うと、今回の橋本さんはフェーダーを半分くらいに下げる、あるいは8割くらいに下げるという方法で、上記の3種の表現を作り分けていたように見えました。
ですが私が思うに、声量とか声質といった物理的な指標だけでなく、上手い表現者は意識のレベルでも自分をコントロール出来るはずなのです。
今回で言えば陣痛の悲鳴はoutboundです。自分の中から外へ向かって投げつけられる声です。ではモノローグはどうでしょう。意識の指向性(現象学という哲学の流派の用語を援用しています)として、モノローグはinboundに一気に切り替える。自分の内側に向かっていくような声として表現する。そんなやり方もあったのではないでしょうか。
次にエミリーとの対比で考えます。エミリーがわが町で死ぬことは、戯曲の構造上必ず必要なことでしたね。同じようにツル子があそこで「死なない」ことも戯曲の構造上必要なことです。とすれば、出産を終えて我が子を抱くツル子という一瞬を、もっと際立たせる演技があったかもしれません。橋本さんのこれまでの役につきまとっていた「死」との対比としての「生」をいかに表現するか。例えばですが、私が見た出産直後の女性はもっとヘロヘロです。我が子を抱くのも一苦労。とすれば、そのシーンを思い切って60秒くらい使って、静寂の中で徹底的に緩慢な動作で演じる。周囲の役者さんたちの視線も全部自分に当ててもらう。そんなアイデアもわきました。
そして、上記の2点をどれだけ鮮やかに表現出来たかどうかが、最後の視点、「女優・橋本菜摘はいかにして誕生するのか」に直接繋がる。
もう終わった舞台なので、今から過去を変えることは出来ないですが、仕事というのは過去のイマイチだった自分を生かして、大きな価値を生み出していける営みですから、次の橋本さんの舞台次第ではまた、これまでの橋本さんの舞台の意味合いや位置づけが変化するわけです。
まだまだ役者人生は始まったばかりです。橋本さんの「次」を見聞き出来る時を楽しみにしています。
加藤晃生