父親が子供とがっつり遊べる時期はそう何年も無いという説が腑に落ちない。

イクメンブーム関連商品としてなのか,父親が子供と遊べるのは数年間だからその時期には頑張って遊んでおこうぜという本が出たらしく,フェイスブックでタイムラインにちょくちょく登場します。

ただ,私はもう息子とみっちり遊んで8年目で,まだまだこれからも遊びプランがわんさかありますもので,どうにも御説が腑に落ちないのです。
どういうもんだろうと思ってウェブサイトを見に行ったら,こんなアンケートが出ておりました。少ないものだとn=104,多くてn=312ですから,量的調査としての信頼性はどうかという気もしますが,ともかくお父さんたちがアウトドアにあこがれていることはかなりわかりました。
私自身はと言いますと,ここに出てくることは「習い事」以外は,息子1歳の時から徹底的にやり込んできているし,別にムキになってやってきた感じでもないので,こういうサイトに集まっているお父さんたちの焦り感みたいなものが,実はよくわかりません。
もう10時間くらいアタマの片隅で考え続けているんですが,やはりわかりません。
・・・・遊ぶのが下手なだけちゃうの?
遊びの本質は,わざと不安定な状態を創りだして,そこからどんな状態に落ち着くのか,その遷移の過程に楽しみを見出すというものです。
知らないことを始めてみる,新しいもの/ことを作ってみる,知らない場所に行ってみる。概ね,こういう行為が「遊び」になっていきます。今まで我々がやってきたのは,全てそういうことです。
何かのやり方を遊びつくしたら,新しい遊びを探索する。その繰り返し。まだまだ今後の予定も詰まってますよ。今年はバスフィッシングデビューとグラボ換装は確定だし,SUPデビューや700Cロードバイクデビューも遠くない将来にやってくるでしょう。上手いことおだてたら,アプリとか作ってくれないかな。もちろん対価は払いますよと。
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最近は26インチのMTB乗ってます
ここまで書いて,何となく見えてきました。
自分で遊びをデザイン出来ない人は,レディ・メイドの遊びを一通りやりつくしたらそこで止まってしまうのではないですか? 
逆に,新しいものを考えて作ることが出来る人には,生命が続く限り遊びに終わりは無い。遊びって,大概の行為行動の中に埋め込むことが出来ますから。

だから,何でも遊びとして再定義出来る。

ただしそれを可能にする条件が一つだけあって,他人が決めた枠組みやルールに縛られない立場を確保するということ。仮にルールがあったとしても,そのルールをメタレベルから眺めて,自分たちにとって面白くなるように読み替える。

(例えばルールの中に更に自分だけ勝手に守るルールを作ってみるとか)

お受験とか部活とかスポ少とか習い事とか,そういうとこにアクティヴィティをアウトソーシングしちゃうから,そこで子供との遊び仲間としての共犯関係が切れちゃうんだと思うんです。子供の成長に合わせて,新しい挑戦,新しい創造を,新しい遊びとしてデザインしていくことを放棄しちゃうから。
なので,私としては,お仕着せのアクティヴィティを消費することで「子供と遊んだ」という思い出を無理に作るというのは,オススメいたしかねるなと思ったのでした。
遊びは自ら創造するもの。お金よりアタマ,使いましょう。