思いがけなくもポストコロニアル理論なんて変なお話に逸れてしまった所で、ついでにもう少しこの方面の話題を続けてみたいと思います。「私たちにホクレアを語る権利」はあるのかという、ちょっと楽しい話題です。
いきなり何を言い出すのか。日本国憲法第21条には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と書いてあるだろうが。いやもう、まったくその通りなんですが、ポストコロニアルの人たちはそれで許してくれるほど甘くはありません。彼らの殺し文句はズバリこれです。
「あなた当事者じゃないのに、何を偉そうに語ってるの?」
つまり、他人のことを本人居ない所で好き放題語るってのは、卑怯じゃないのかと言いたいのです。まあ確かにそういう側面はある。本当は違うかもしれないのに、勝手に「これはこういうものなんだよね。」なんて決めつけて語ってしまうと、特に語られちゃった方が立場弱かったりしたら、なかなか「いや、実はそうじゃなくてね。」なんて言い出せない。言い出せないままに話が広まって収拾がつかなくなる。あなたその責任とかどう考えてるわけ?
こんな感じの手順で王様を詰ませてしまう。まあ一種のハメ手ですわね。心正しい人は大体これで黙らされてしまいます。
しかし、このハメ手には一つ重大な問題があります。というのも、だいたいこういうハメ手を使う人は、その語られている当事者じゃないんですよ。当事者から離れた所で語っているという点では五十歩百歩。違いは「語る」という事そのものを問題視するという点だけであり、そのハメ手に先に気づいて使う事が出来た頭の回転の速さにしかありません。ですからこういうハメ手を使う人は、決して自分から何かについて語るというリスクを犯さない。まず相手に語らせて、ハメる。語らせて、ハメる。結局このハメ手循環から浮かび上がってくるのは、「ハメ手を使っている人のほうが頭の回転が速い」という、ただそれだけの事です。
要するに、こういうハメ手を使う人は、倫理の問題について論じているようで、実は「俺はお前より頭が良い」という、それを仄めかしたいだけと違うのか?
ポストコロニアルの人たちを見ていて私がいつも思うのは、そういう事です。
他人が何を考えているのか、本当のところは誰にもわからない。しばしば本人にだってわからない(笑)。というよりも、時間の経過とともに、「ああ、自分があの時感じていた思いは、実はこういう事だったんだ。」と腑に落ちる。そういう形で私たちの思いや考えは具体化し、一つの確固とした意味として結実するのではないでしょうか。だって私たちが心の中で考えていることは、そのままでは明確な意味になっていませんもの。学校に通っていた頃を思い出してください。なにかはっきりとはしないけれども、言いたいことはある。それを作文にすると、自分の言いたいことが言葉として連なっていく中で明確な形を取り始め、作文の完成と同時に一つの主張として焦点を結ぶ。そんな感じじゃなかったですか?
だとすれば、語られている誰かの心の中には既に完成品としてパッケージングされた明確な考えや思想があり、外部からそれを窺い知るのは不可能であるから、他人について語る事は控えるべきであるという、ポストコロニアルのハメ手の理屈は端的に言って間違っています。
語られる誰かの考えや思いは、語る誰かとの間の相互作用の中で練り上げられ、形となってゆく。語る誰かがいなければ、語られる誰かの考えや思いは、倉庫の中に滞留した在庫商品のままである。逆もまた同じ。語る誰かの考えや思いは聞き手を得て初めて形になる。
私はそう考えています。だから私は、ポストコロニアルの人たちに(この先)何を言われようが、ホクレア号について語る。語るという行為には、語り手の品性が問われるというリスクが常につきまといます。一番安全なのは語らないこと。語っている誰かに半畳を入れるのに専念すること。ですけれども、そういう人しか世の中に居なくなったら、結局何も生まれませんわね。それじゃあつまらない。語り手は語るというリスクを引き受け、語られる者は語られるというリスクを引き受ける。それで世の中は動き出し、良かれ悪しかれ何かが生まれて来る。
まずは世の中を掻き混ぜてみなければ。特撮ドラマで毎週やられキャラが出てくる理由はそこにあります。
かくして非公認ホクレアファンクラブ(会員は1名)は、今日も明日も明後日も、ヤフーブログを攪乱していくのでした。
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