ほんとうの怠け者とは、全ての責任を外部に転嫁し続ける者なのかもしれない。

よくビジネス書の類いで取り上げられる箴言に、プロイセンからワイマール共和国の時期のドイツで活躍した将軍であるハンス・フォン・ゼークトによる軍人の4分類というものがあります。

日本語版ウィキペディアにはこんな風に書かれていました。

" 軍人は4つに分類される。

有能な怠け者。これは前線指揮官に向いている。理由は主に二通りあり、一つは怠け者であるために部下の力を遺憾なく発揮させるため。そして、どうすれば自分が、さらには部隊が楽に勝利できるかを考えるためである。

有能な働き者。これは参謀に向いている。理由は、勤勉であるために自ら考え、また実行しようとするので、部下を率いるよりは参謀として司令官を補佐する方がよいからである。また、あらゆる下準備を施すためでもある。

無能な怠け者。これは総司令官または連絡将校に向いている、もしくは下級兵士。理由は自ら考え動こうとしないので参謀の進言や上官の命令どおりに動くためである。

無能な働き者。これは処刑するしかない。理由は働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、さらなる間違いを引き起こすため。"

(先に補足しておきますと、この箴言は私の知る限り日本語でしか出回っておりません。"Seecktquotes"で検索しても英語では一切出て来ません。)

この箴言の面白いところは、最高司令官にはバカを据えておけという毒のある逆説だと思うのですが(これを捏造した人は社長に恨みがあるサラリーマンだったのかも)、そういう部分をスルーして真面目にこの箴言をビジネス書に書く人も絶えないようです。

昨日、某所で目にしたのは、これを部下の4類型に変形したもので、「頑張り屋/怠け者」「目標達成/目標未達」の2種類の名義尺度を使った2×2のクロスで、どんな部下がダメなのかを示すという試みです(頻繁にエゴサして絡みに来る御仁なので名前は出さないでおきます)。

さて、この図式で最も有害とされたのが「頑張り屋×目標未達」タイプ。理由は、このタイプは間違ったやり方を変えようとしないから、だそうです。ゼークトの箴言の「無能な働き者」に対応するのだと思います。

この解釈、皆さんはどう思われますか?

私は2点で疑問を抱きました。まず、オリジナルでは能力や特性に注目して設定されていた二つの名義尺度ですが、改変版では片方が成果に注目した名義尺度になっています。仕事は成果を基準に評価されるべきものであり、部下の類型化も、その部下が出しうる成果を予測するために使うもののはずですから、類型を定義する尺度に成果を入れてしまっているのは論点先取ですね。

次に気になったのは、部下が間違ったやり方で仕事をして目標未達になっているのであれば、問われるべきはマネージャーの責任ではないかということです。きちんと指導していないから、頑張っても目標未達になるのではないか。

そういう意味で、この改変版はあまり出来がよろしくないと思ったのですが、私にとってこの改変版の価値は別のところにありました。この改変版は私に、怠け者とはいかなる者なのかを、改めて考える機会を与えてくれたのです。

ビジネス書でしばしば目にするのが、怠け者は楽をしようとして知恵を絞るから生産性を上げるという、怠け者の効用です。闇雲に手を動かすのではなく、最大効率で求められる結果を出せる方法を考えると。トム・ソーヤーが塀のペンキ塗りを「苦役」から「娯楽」に意味変換して、友人たちにアウトソースしてしまったというお話を思い出して下さい。

あのお話では、トムはいとも簡単に生産性を上げるアイデアを思いついたことになっていますが、実際のお仕事では、そんな簡単に夢のようなアイデアは出るものではありません。必死に知恵を絞り、周囲を観察して、ブレイクスルーを生み出していくものです。つまり、手は動いていなくても、脳と目と耳はフル回転しているのです。これを怠け者と呼ぶべきなのか。

一方で、本当にどうしようもない怠け者というのも世の中には存在します。これをやってくれ、あれをやってくれと指示されても、ギリギリ最低限クビにならないレベルしか動かない。2000字程度のレポートと言われたら1800字で出す。1800字で怒られなければ次は1700字。それでも注意されなければ1600字。誤字脱字を放置する。注意されればふて腐れたり逆ギレしたりする。真に怠惰な人間は際限なく下にタレてゆく。組織にとって真に有害なのは、こうした人間です。

では、真に怠惰な者と生産性向上に知恵を絞る者の違いは何なのでしょうか?

私が考えたのは、「真に怠惰な人間は、責任を外部に転嫁し続ける人間なのではないか」という仮説です。というのは、こんなダルい仕事をやらせる方が悪いんだ、あいつの指示の出し方が悪いんだという直接的な転嫁も見かけるわけですが、「自分は元々クズなんで、こんなの出来なくて当たり前なんですよ、あはははは」という分散転嫁も実は少なくないと感じているからです。

「私はダメクラスタです。だから出来なくて/やらなくて当然なんです。」

これは一見、悪いのは自分ですと言っているようで、その実「ダメクラスタ」という属性を持つ人間を広く想定し、そのクラスタ全体に責任を分散転嫁しているのではないか。やらなかった自分に向けられた批判のまなざしは、ダメクラスタを想定することで、その人物の中で拡散して希釈されてしまうのではないか。

逆に、生産性向上に知恵を絞る人間は、「これを自分の責任でやってしまわないとダメやねん」という基本的な構えが出来ているはずです。言い換えるならば、同じ省力化志向であっても、タスクを自分の責任として引き受ける者は生産性向上に知恵を絞り、真に怠惰な者はタスクの責任からあの手この手で逃れようとする。

いかがでしょうか。それなりに面白い仮説だと思うのですが。