「お読みになって気づかれたと思いますが、私のゼミの卒論は全て同じ型に填めてあります。IMRAD構造で必ず書けと指示してあります。何故なら、これが科学的論考の基本だからです。まあ私も人文系出身なんですが、人文系の方々のことは正直理解しかねる部分がありまして、例えばあの、人文系の方がよく書いておられるエッセイだか論文だかわからない文章ですね。ああいうものは大学の外では役に立ちません。だから私は自分の学生にはああいうものを身につけて欲しくないと思って指導しました。結果的に、読み物としては面白くないものになったかもしれませんが、それよりも大事なのはIMRADの文章を身につけることであり、ピラミッド分析の経験だと思ってます。」
「論文とは科学的データを取り、論理的に分析し、有益な知的創造を行い、最適な形で提示するものだと考えています。文章より写真で提示した方が読み手に伝わりやすいのであれば、写真を使うのが当たり前です。結果として写真が多くなったとしても何の問題もありません。」
※本日某所での私の発言を90%以上の再現度で文字起こししております。
自分の指導する学生については、ちゃんとディフェンドしました。自分のゼミの指導方針はこれであり、評価尺度はこれであり、この卒論はそれに当てはめるとこういう評価になりますと笑顔で説明して終了。
難民のみんなには、最後にちょっとつまらない目に遭わせてしまったかもしれない。力が及ばなかった。でも卒論執筆を通して社会で使える力を身につけさせるという意味では最善を尽くしたつもりだし、文芸作品は学者の指導が無くても書けるけど、IMRAD構造の科学的論考は学者のマンツーマン指導が無ければまず素人が書けるもんじゃない。そういう意味でも価値ある学びを提供出来たと信じてます。
それと、指導教員なんだから自分の指導する学生の卒論の全ての部分について、何故そうなっているのか、何が足りなかったのかは知り尽くしています。ダメ出し大会に終始するのが口頭試問のあるべき姿なのか? 私はそうは思いません。卒論がダメなら責任の3割くらいは指導教員にある。叩いてる場合じゃない。
「この論文はここが足りなかったね。それはここで失敗していたからだってのは、もうわかるよね。ということはあなたの現時点での弱点はこの辺だよね。だから社会人になったら、ここはちゃんと対策していかないとね。そうすればあなたはきっと良い仕事をする人間になれる。頑張ってください。出来るね? 頼んだよ!」
とか
「この論文の価値はこの辺だよね。これは凄く良いし、もっと深めていけばこんな可能性が出てくる発見だと思う。じゃあこの発見をどうしたら社会に還元して役立てていけるかな? 例えばこうしてみたらどうだろう?」
・・・とまあ、私は殆どこんな話しかしませんでした口頭試問。大事なのはこれからのことですもの。
あ、そういえば今日、伊豆大島プロジェクトの仲間たちの卒論打ち上げパーティーから帰ってきて稲城駅を降りたら、SUICAが残額ゼロ円になりました。あのSUICA使い出したの2年前だと思いますが、残額ゼロは初めて。
立教池袋キャンパスでの仕事が全て終わった日にゼロになるって、気が利いてますよね。